未来 ― 私達の力で歴史を動かそう!

アクセスカウンタ

zoom RSS 多喜二の志賀直哉訪問

<<   作成日時 : 2006/06/19 05:21   >>

トラックバック 0 / コメント 10

 土井大助『小林多喜二』(1979年・汐文社)を古本屋でゲット、先日読み終わりました。この本にも志賀直哉をたずねた多喜二のことが書かれています。
 ここには、「のちになって志賀はその日のことを書いている。『桜が咲いていた』というのは、志賀の没後、かれの思いちがいであることがわかった」と書かれています。これによると、志賀の「桜が咲いていた」によって32年春訪問が定説化されたみたいですね。志賀没後、その他の書簡から「桜が咲いていた」は志賀の思いちがいとして、訂正されたのですね。

 「彼は実に暢気に話をして行った。何も道楽がなく、将棋も麻雀もやれないというので、仕方がないから一緒にあやめが池の遊園地へ遊びに行った。僕はその時子供をつれて行ったが、桜が咲いていた。花の下の木柵にもたれて、小林君は何かしら元気に子供の相手になったり、僕に話しかけたりしていたのが今でも目に見えるようだ。その時ひどい目(拷問)にあった話をするので、僕の子供はまだそんな話は全然分からんが、男の子が大きくなった時には、もう小林君にはやたらに来て貰わんようにしようと冗談を言ったら、子供の頭を撫でて、なに子供が大きくなったら、もっとやってきて、家ん中を掻き廻すからと応酬した。
 ここへ来た時も、僕の話を黙ってきいて、少しも自分から理屈を言ったり、批判をやったりしなかった。大体において僕の言っていることを肯定していた。その肯定が僕の立場に立っての肯定であることも僕には分かっていた。その点で人柄がいいとも思ったし、すっかり大人だと思って、それまで抱いていたプロレタリア作家というものにたいする僕の考えを直してくれたような人だ」

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
多喜二と志賀直哉が散策したあやめ池公園は、作年閉鎖されました。公園跡地は今後、近畿大学付属中学校・高校と住宅団地が誘致されると聞いています。奈良市には高畑の志賀直哉邸がそのまま残されていますが、昔白樺派の文豪とプロレタリア文学のエースが訪れた思い出の名刹が無くなるのはさびしいですね。多喜二は志賀邸に泊まらず、東大寺近くの日の出旅館に投宿したという説もあります。しかし志賀は同月6日付けの網野菊宛の書簡の中で、「多喜二来て泊まって行きました」と記していますので、志賀邸の泊めてもらったことは間違いないと思います。当時の情勢から考えて、官憲の保護観察下にある多喜二を自宅に泊まらせるというのは大変なことだったと思います。不敬罪で約半年、刑務所に収監されていた人物と歓談したことが官憲に知れただけでも、後々官憲から執拗な聞き込みや嫌がらせを受ける可能性がありました。志賀が多喜二を自宅に泊めたのは親心で、そのほうが旅館に泊まるより安全だと配慮したこと、多喜二が次の日には帰京せざるを得ないので寸暇を惜しんで語り明かすための、両方の理由だったと想像します。
御影暢雄
2006/06/19 11:06
あやめ池公園はすべてなくなるのですか。残念ですね。多喜二と志賀直哉のお互いを尊重した交流は、伊豆利彦『戦争と文学』の視点に、現代にもつながる重要なものがあると思っています。
未来
2006/06/19 19:44
志賀直哉が多喜二を暖かく迎えてもてなした理由は、以前からの書簡のやり取りを通じて多喜二に好感を抱いていたこと、多喜二が志賀文学をよく理解し吸収していると認めていたこと(尾崎一雄「あの日この日3」)、そして雑誌記者や里見とんらから多喜二の好ましい評判を聞いていたからだと私は想像しています。特に前年、多喜二が豊多摩刑務所に収監されているときは、志賀は雑誌記者を通じて差し入れの手配を試みています。志賀にはこの時届かなかった差し入れのことも脳裏にあって、刑務所帰りの多喜二を歓待したい思いがあったと思います。若い頃、内村鑑三に私淑したことのある志賀は、権力を醒めた目でみる反撥心を秘めていたとは間違いないでしょう。内村鑑三と親交のあった徳富蘆花の「謀反論」にも共感していたのではないでしょうか。多喜二への気配りは、権力から迫害された文士に同情する志賀の反権力魂の顕れであったと思っています。
御影暢雄
2006/06/19 21:11
多喜二って、ほんとうに、人柄の良い人間だったのですよね。多喜二の志賀訪問の逸話を読むと、いつも胸がじぃーんとします。
めい
2006/06/20 19:41
多喜二の豊かな人間性って、多喜二を知っている人がみんな言っていますよね。土井大助『小林多喜二』にもそんな多喜二像がたっぷり紹介されていました。
未来
2006/06/20 20:40
ずいぶん前に、行楽の取材で志賀直哉を訪ねたとき、多喜二と直哉が交流していたことを知り、びっくり感動。広い庭の見えるサロンのどの席に多喜二は座ったのかしらと思いました。「ええもんはええ」とと認め、貪欲に学ぼうという多喜二と直哉双方の柔軟性、歩み寄り。そのどちらが欠けても、二人が同じ時間と空間を共有するということはなかったような気がします。
kei.sugar♪
2006/06/22 00:40
kei.sugar♪さんの仕事って大変なのでしょうが、時々役得みたいなこともあるのですね。いろいろなことが知れる機会があっていいですね。
くれぐれも身体には気をつけて頑張ってくださいね。
未来
2006/06/22 05:25
多喜二がそのようにして、東京から奈良まで行ったかは、それを裏付ける資料は見当たりません。私は小説を書く時、最初は当時の「燕」(東京→京都8時間)に多喜二が乗車したと推理しました。しかし、当時は車中の臨検(警察が乗客をチェック)もあった可能性があるので、目立たないように夜行の三等寝台車で往復したという結論を得ました。事実、前年の戦旗社の関西講演時には、大宅壮一らとその夜行寝台車を利用したことがはっきりしています。多喜二は11月初旬のある日の深夜、東京駅から夜行寝台車で京都に向かい、翌日昼過ぎ頃国鉄を下車し、京都八条口から奈良電気鉄道に乗り、一時間後に西大寺で下車、大阪軌道(今の近鉄)に乗り換えて奈良市に到着したと考えられます。到着したのは午後2時ー3時頃でしょう。一両日後、同じ頃に奈良を発ち、逆のコースで帰りも三等寝台車にゆられて、翌朝早くに東京に舞い戻ったと想像します。ですから、多喜二の最初で最後の奈良滞在は24時間だけだったと推察されますが、私は多喜二は志賀の歓待と励ましを受けて、至福の時を過ごせたと思っています。
御影暢雄
2006/06/22 21:49
前のコメント一行目「そのようにして」→「どのようにして」に訂正致します。多喜二が志賀邸で歓待を受けた時、近所に住む画家の若山為三が同席しています。志賀は多喜二をもてなすホスト役に若山を呼んだと想像されます。画家を志したことのある多喜二には、パリのアカデミーランソンで絵画を学んだ若山がまぶしく見えたと思います。若山は志賀より10才若く、多喜二より10才先輩でした。
御影暢雄
2006/06/22 22:01
若山為三というと広島忠海中の卒業ですよね。後に地図にない島と呼ばれる大久野島―大規模毒ガス工場があった。
若山と多喜二が同席したという情報の出典は何ですか教えていただければ幸いです。
takahashi
2006/06/23 00:08

コメントする help

ニックネーム
本 文
多喜二の志賀直哉訪問 未来 ― 私達の力で歴史を動かそう!/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる