テーマ:田口タキ

名作旅訳文庫 『蟹工船』

 JTBパブリッシングが「名作旅訳文庫」を創刊しましたが、その第1が小林多喜二の『蟹工船』です。小説『蟹工船』は「青空文庫」収録のファイルから作成されています。『蟹工船』は別の文庫でも読めるのですが、本文庫にはJTBならではの紹介、エピソードや、多喜二ゆかりの建物の跡地・存続状態なども記載されています。また、多喜二の資料などを何処に行け…
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小林多喜二の恋人 田口タキさん死去

 小林多喜二の恋人だった田口タキさんが今年6月19日に亡くなっていたことが知らされました。10月に講演した時に、訃報を聞いていないので、いまも存命のはずと話したばかりでした。  『小林多喜二の手紙』(岩波文庫)の出版は、タキさんへの最高の餞となったのではないでしょうか。  http://www.sakigake.jp/p/aki…
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アンリ・バルビュス『地獄』 「闇があるから光がある」

 ブログ「21世紀の小林多喜二への手紙。」に、御影暢雄さんがアンリ・バルビュス『地獄』についてコメントを書かれています。多喜二がタキちゃんに送った「闇があるから光がある」の言葉とも関係する作品です。  http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/238eb28444c2dbd6988e17bbc29c123…
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今度は「サンデー毎日」! 多喜二の人間像に迫る

 「蟹工船」ブームが続く中で、今度は「サンデー毎日」7月13日号が多喜二の人間像に迫る記事を掲載しました。記事は、「再発見 こだわりの旅と味」に掲載されたものですが、生身の多喜二が伝わる内容です。七沢温泉・福元館のエピソードは、読むものの心を打ちます。  福元館女将の話や、「折ればよかった」を口ずさんでいた姿が浮かぶような内容です。田…
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小林多喜二の戀②

  akioさんから「小林多喜二の戀②」が紹介されました。以下に転載します。 ♪小林多喜二の戀②  小林が田口瀧子あてに書いた手紙は、小樽時代、東京時代の八年間をとおして二十通ばかりのこっているが、この手紙はおそらくいちばん最初のものではなかったとおもわれる。  日づけをみると、大正13年3月20日なっているから、小林二十三歳、瀧…
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小林多喜二の戀 ①                

 akioさんの新連載が始まりました。第1回は「瀧ちゃん」宛の手紙の抜粋からです。以下に紹介します。 ♪小林多喜二の戀①♪  「闇があるから光がある」  そして、闇からでてきた人こそ、いちばんほんとうに光のありがたさがわかるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。  不幸というものが片方にあるから、幸福ってもの…
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小林多喜二の死とその前後

 以前に多喜二の通夜の場で、岡本唐貴、伊藤ふじこ、田口タキが出会っているかどうかが話題になりましたが、どうも各証言者の話に少しづつずれがあります。時間が経てば記憶が薄れたり、思い込みによる錯覚などが生じます。「新日本文学」第5巻第2号(1950年2月号)に、座談会「小林多喜二の死とその前後」が収録されていました。  1949年3月6日…
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タキさんが語る多喜二との結婚辞退

 澤地久枝著「わが人生の案内人」にタキさんから澤地さんあての手紙が二通紹介されています。どうしてタキさんは多喜二のプロポーズを断ったのか、その心境が書かれています。  澤地さんの「会いたい」という手紙への1980年4月の返信です。  「小林多喜二の事で、私にお会いになりたいのでしょうと思われます。私事になりますが、私の夫の××は…
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小林多喜二の恋 Ⅳ 

 北海道の山は色づきはじめたようです。大阪とは気温もずいぶん違うのでしょうね。北海道では真夏でもストーブがあるところがあり、びっくりしたことを思い出します。27年前、旭川から稚内へ夜行電車に乗ったら夏なのに暖房が入っていたことをいまも覚えています。これから厳しい冬へと向っていくのですね。  アキオちゃんから、「小林多喜二の恋」の続きが…
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小林多喜二の恋 Ⅲ

 アキオちゃんからの新連載、「小林多喜二の戀」の続きが寄せられました。以下に紹介します。 小林多喜二の戀 ②  結婚とシノニム(同義)をもつようなことを、一再ならず書いているのだ♪♪  小林は手紙の中で、瀧子に小樽へ帰るように、そして、若竹町の自分の母と一緒に暮らすように、しきりに勧めている。  彼のこの希望は、瀧子へのプロ…
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七沢温泉から伊藤ふじ子への手紙

 佐藤三郎さんの、タキの結婚辞退「1月説」への驚きの声があがっています。タキ宛書簡の変化への考察から始まった議論でもあります。多喜二とタキが暮した生活から遡って考える必要があると思っていますが、今日は逆から考えてみることにします。  佐藤三郎さんの年譜では、「1931年3月中旬、神奈川・七沢温泉に投宿。4月6日、『オルグ』を完成」…
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タキさんは話してくれるのかな?

 タキの結婚辞退「1月説」に関して、島村先生から「こうなったらこればかりはやはりタキさんに訊くしかないかもしれない(無理だろうな)」とのコメントがあり、それに関する佐藤三郎さんのコメントに注目しました。「それは無理ではありません」とありますが、年齢的にもどうなのでしょうか?  佐藤さんのコメントを転載します。  島村先生、「こう…
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「最後の手紙」と言われる書簡の内容が全集によって違う!

 びっくりです。佐藤三郎さんの、タキの結婚辞退「1月説」から、いろいろなことが考えられることが明らかになっています。  「最後の手紙」といわれる書簡の内容が、『定本 小林多喜二全集』と『新装版 小林多喜二全集』とで違うと島村先生のコメントを読んで、さらに驚きです。こんなことがあってもいいのでしょうか?  『定本 小林多喜二全集』…
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タキの結婚辞退「1月説」  佐藤三郎さんの考察

 島村先生の「タキ宛書簡『お前』をめぐって」の考察を読んで、タキへのプロポーズが佐藤三郎さんの年譜では「1月下旬」になっていることに気付きました。  このことに関して、佐藤三郎さんから、ブログへの投稿としてメールをいただきましたので、以下に転載します。  ごぶさたしました佐藤です。 多喜二のタキへのプロポーズとその辞退、結婚の…
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田口タキへの「最後の手紙」 ここにも「思い込み」があった!

 田口タキへの「最後の手紙」とされていた1933年1月田口瀧子宛書簡に関して、御影暢雄さん、takahashiさんからコメントが寄せられています。  そのコメントを読んで仰天!です。「最後の手紙」と思われていたハガキは、32年8月頃のものではないかとtakahashiさんは言っています。その説明を読むと「たしかに」と思えるところがあり…
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1933年1月 田口瀧子宛  最後の書簡

 久し振りで来てみた。(9時頃。)多分居ないだろうとは思ったが、お母さんとでも会ってみようと思って。何時か静江さんから伝言してもらった通り、あれから家に帰らない転々とした生活を続けている。然し元気で、仕事をしている。  22日は遅番らしいとの事なので、若し、仕事がなかったら、9時頃出て来てみようと思っている。当にしないでいてほしい。若…
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1931年8月1日 田口瀧子宛 書簡

 君はもう見たろうが、28日の時事に、「壁小説の白眉」と云う見出しで、ぼくの「テガミ」を激賞していた。昨日の朝日にも、国民新聞にも「テガミ」が、あの壁小説の中で一番いいものとして批評されている。何よりも喜んでもらおう。あの小説がどんなことを書いているかということが分れば特別に君に喜んでもらいたい意味が分るだろう。  ぼくは相変わら…
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田口タキへの手紙 瀧ちゃん→お前→君

 田口瀧子宛書簡を紹介してきましたが、あと2通で全集収録の田口瀧子宛書簡は終わります。以前にケイさんが、1930年11月22日の手紙で「お前」と書いていることについてコメントされていました。  この手紙以前は、すべて「瀧ちゃん」と書いているのですが、この手紙だけが「お前」になっています。1931年1月26日の手紙は「君」となっています…
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1931年1月26日 田口瀧子宛 書簡

 出てから直ぐ知らせる積りだったが、斎藤が若竹町へ電報を出してくれたので、同時に知ってくれたと思うので、今までのびてしまった。とにかく元気で出てきた。出てきてみると、世の中の色々なことが、ゴチャゴチャと覆いかぶさってきて、(出てくるときは元気だったのに)今、かえって神経衰弱になっている。此処にゴチャゴチャ居るので、それに色々な処へ出歩か…
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1930年11月22日 田口瀧子宛 書簡

 今日(11月22日)は、空は高く澄んでいる。お前はこの手紙では、雨の降った日、此処にいるぼくたちがどんな気持でいるだろうと書いていた。然し、ぼくは、空が青く明るく澄んでいるのを見ると、憂鬱になるのだ。雨がふれば、独房の隅には寒そうなかげがよどんで、机の下に立てかけてある鏡が沈む。だが、外の世界のものも、こんな日は、ぼくたちと同じように…
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1930年10月31日 田口瀧子宛 書簡

 12日のお便りをもらった。ぼくのこの前の手紙は、少し神経衰弱で、イライラしていた時に書いたので、変な文句もあったように覚えている。それは、この前の面会の時と、今度の手紙で取消し、或いは訂正さして頂くことにしよう。  面会に来てくれたことは何よりうれしかった。そして、顔の色も丈夫そうであったことを見て、喜んでいる。充分に、太陽の光…
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1930年10月11日 田口瀧子宛 書簡

 此処へ来てから、40日目で、始めて瀧ちゃんから便りをもらった。可哀そうに、手紙を出していいか、悪いかさえ分らなかったのだね。斎藤が知っていた筈だから、知らせてくれたこととばかり思っていた。色々なことがあってみると、ぼくも間違っていたことに気付く。然し、ここの詳しいことは書けないが、一口で云えば、分って置いてもらいたいことが沢山あったと…
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『「文学」としての小林多喜二』「監獄の窓から見る空は何故青いか」

 多喜二の女性観にも触れた「監獄の窓から見る空は何故青いか」。タキ宛書簡をアップしてからと考えていましたが、ケイさんから斎藤次郎が気になるとのコメントがありましたので、紹介ついでに書いてみます。  ただ、この『「文学」としての小林多喜二』のそれぞれの論稿は、個別のテーマから書かれているのですが、結構連関があるのです。どうしても他の論稿…
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1930年10月2日 田口瀧子宛 書簡

1930年10月2日 田口瀧子宛 書簡  今日は10月2日。もう秋である。この二、三日の空の青さは心にしみ入るようだ。殊に高く取り付けてある赤煉瓦の窓をとおして青空をみる、その青さは又別である。瀧ちゃんから今迄一度も便りのないのを、どうしてだろうと思っている。差入をしてくれているので、安心してはいるが、弟にきくと、未だ一度も会っていな…
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1930年9月4日 田口瀧子宛 書簡

1930年9月4日 田口瀧子宛 書簡  筆が悪いので思うように書けません。 - とうとう暫くのお別れが来ました。6月24日から、色々な真夏の東京の留置場を通って、8月21日ここへ廻ってきました。どの位長くなるか知れませんが、裁判になるまで、前例を見ると2年以上もかかるらしいとのことです。事件のことは書けないことになっていますが、私のは…
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1930年3月5日 田口瀧子宛 書簡

 そろそろ私がタキ宛書簡の掲載を始めた意味を理解していただいたようですね。めいさん、続きをどんどん読みたいでしょう?  この間、忙しくて書簡の紹介ができずにいましたが、これからの書簡が私が多喜二特集号発売前にと考えていたものなのです。  でも、このタイミングが一番良かったと、いまでは思っています。これからの書簡の内容が興味深くなって…
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1930年2月 田口瀧子宛 書簡

1930年2月(日なし) 田口瀧子宛 書簡  瀧ちゃん、僕が今、どんな気持ちでこの手紙を書いているか、それを、とても手紙では云えないことを、どんなに残念に思っているか分らないのだ。  たしかに、受取りました。御手紙も小包も!この山のたった一軒の温泉宿で、一日朝から夜の十二時迄座ったきりで、一生ケン命、仕事をしている僕にとって、この小…
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1929年5月16日 田口瀧子宛 書簡

1929年5月16日 田口瀧子宛 書簡  この前の夜は(一九二九、五、一四)又、私達には忘れることの出来ない日になった。彩子ちゃん(少し、なれないので変だが、彩子ちゃんの幸福のためにそう呼ぼう。)も、こんな事が、二度あるとは思っていなかったと云った。あの時は、思わず胸が熱くなった。お互いにそう変わっていないので、本当に嬉しかった。 …
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1927年5月 田口瀧子宛 書簡

 1928年1月1日の日記は有名ですが、あの日記を書くに至る思想的変化までの多喜二の重要な思想を示したものとして注目される書簡だと私は思っています。  タキへの手紙の「質」が明らかに変わっています。多喜二はタキに分るように書いたつもりですが、この多喜二の認識をどれだけ理解したのか、少し疑問に思いました。とくに「○の五」は言葉にすれば簡…
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1927年3月15日 田口瀧子宛 書簡

1927年3月15日 田口瀧子宛 書簡 第二便。  演説会へ行ったが、満員で入れず、表には武装した巡査が何十人も立って居り、入れないでいる人々が何百人も立ち去りもしないで表にいるのだ。そしてそういう労働者の多くが如何に進歩してきたか、ということは、その立話でも分る。マルクスあたりの言葉などを使っていた半纏の男もいた。兎に角僕は興奮し…
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