9月26日 大阪山宣記念集会

画像 いよいよ大阪山宣記念集会まで、あと一週間です。私は忙しく走り回っていたため準備に参加できていませんが、事務局のほうで着々と準備が進められています。ぜひ、お誘いあわせのうえ、会場にお越しください。

 大阪山宣記念集会

 日 時  2009年9月26日(土) 13時開会
 場 所  ドーンセンター7階ホール (大阪府立女性総合センター)
       地下鉄・京阪「天満橋」駅徒歩5分
 講 演  「現代と生きる山本宣治」 小田切明徳宇治山宣会顧問
 協力費  1,000円
 主 催  大阪山宣記念集会実行委員会
 問合せ  治安維持法国賠同盟大阪府本部
       06-6772-7555

この記事へのコメント

カーキー・ソルト
2009年09月19日 12:46
10年ぶりの大阪山宣記念集会です。記念講演「現代に生きる山本宣治」の講師の小田切明徳さんは、山宣の研究では日本でトップクラスの研究家です。オープニングではシンガーソングライターのケイ・シュガーさんが山宣ゆかりの歌、竹久夢二作曲の「宵待草」などを歌います。注目されているのは、この日の為にケイ・シュガーさんが作詞・作曲されて、今回初公表の「山宣」の歌です。各界からとても期待されています。10年後には、集会が開かれるかどうか保証されませんので、この機会に、友人知人にお誘い合わせの上、ぜひご参加ください。
      
御影暢雄
2009年09月21日 08:17
【第2回伊勢崎・多喜二祭開く】
 ~延べ200人余の参加で成功
  『よみがえれ、多喜二』土井大助氏の講演に共感

 群馬県伊勢崎市で9月6日、1931年9月6日に起きた「小林多喜二奪還事件」を記念して、第2回伊勢崎・多喜二祭が開催されました。午前11時から、小林多喜二が立ち寄り、検束もされた故菊池敏清宅で現地説明会が開かれ、約50人が参加しました。敏清氏の長女の規子さん、三女の利根子さんからの挨拶、八田利重代表の説明に続き,群馬県文化財研究会会長の桑原稔氏から、7月19日に行った旧菊池家調査の概要が報告されました。参加者は多喜二が茶話会で語った時に背にしたという床柱に見入っていました。
御影暢雄
2009年09月21日 08:26
 午後2時から伊勢崎市文化化会館大会議室で会場いっぱいの160人余の参加で記念講演会が開かれました。会では八田利重代表の挨拶に続き、奪還事件の際に活躍した関係者の家族や県内研究者が紹介され、大きな拍手に包まれました。次に事務局が用意した大判の多喜二奪還紙芝居が披露されました。全国の多喜二祭の状況を藤田廣登氏が述べ、桑原稔氏が調査結果による菊池敏清宅の保存の必要性を訴えました。
御影暢雄
2009年09月21日 08:40
 記念講演に立った土井大助氏は、自らが82歳になったことを述べて、演題に入りました。土井氏はこれまでの多喜二研究の中で明らかにされてきた多喜二の人柄や、思想的な発展をユーモアを交えながら話しました。
多喜二と親交のあった手塚英孝氏や江口かん氏から聞いたエピソードなども披露。また多喜二文学の一説なども紹介し、時には会場は大きな笑いに包まれました。
 高校3年の女子高生は、「楽しい話が多く、聞いていてもおもしろかった。多喜二さんに親しみが持てた」と語っていました。また、ある参加者は「蟹工船」ブームが起きた理由に多喜二そのものの生きる姿勢への共感があったと実感した。改めて多喜二全集を読み直したい」と話していました。

 (9月17日しんぶん「赤旗」文化学問ページより)
未来
2009年09月22日 06:43
第2回伊勢崎・多喜二祭の成功は嬉しいですね。
私も一度行ってみたいです。
御影暢雄
2009年09月23日 11:06
9月26日「大阪山宣記念集会」では、山本宣治が右翼の凶刃によって斃れる数日前に、新潟五泉村を訪問した際に揮毫した「唯生唯戦」の掛け軸が展示されるそうです。23日しんぶん「赤旗」に浜田紀男氏が、その書について寄稿されています。(以下要約)

 山宣は1925年2月27日、農民組合の招待で新潟五泉村を訪れました。予定されていた演説会は、警察から「集会禁止」とされることになるのですが、当日の昼ごろ「かじや旅館」で食事をしながら座談会が開かれました。その時に、山宣は「唯生唯戦」の書を揮毫しました。これを地元の農民組合・石田宥全氏(戦後、社会党衆議院議員)が受領し、石田氏の長男・和夫氏が保存していました。
 縦書きで「唯生唯戦」と書かれ、左側に”一九二九・2二・二七於五泉 山本宣治”と記されています。
署名下の花押は、卵子に向かう精子を象(かたど)っています。山宣がよく使っていたものです。書の下の方にはラテン語で”VITA BREBIS SCENTIA LONGA”(人生は短く科学は長し)と書かれています。また、上部には宇治善法の山宣記念碑の裏面にある「山宣ひとり孤塁を守る だが私はさびしくない 背後には大衆が 支持しているから」の拓本が貼り付けられている。(戦後、宥全氏が加えた。)
 唯生唯戦の意味はそれぞれだが「ひたすら生き、ひたすら戦う」と言われている。石田家により大切の保存されているのだろう、一点の染みも無かった。
 この書を見たときの感銘は、昨年の6月1日、山宣資料館で、山宣の突然の悲報に驚き、山宣の実家の花やしきに弔意を送った、俳人の河碧梧桐の書簡を79年ぶりに発見した時のときめきと同一のものだった。
 (浜田紀夫 大阪山宣会事務局長)
御影暢雄
2009年09月23日 18:37
 伊勢崎多喜二祭のHP(掲示板?)9月19日には、先般の伊勢崎多喜二祭で披露された紙芝居が掲載されています。アップして見ましたが、なかなか味わいのある紙芝居ですよ。

 島村先生がブログで片山鉄平について書かれており、「群馬共産党事件」が片山の小説の作中で触れられているとのこと。YAHOO検索で同事件を調べたのですが、「群馬共産党事件革命家」(作詞 高津渡・譜:嗚呼玉杯に花受けて)というのが出てきました。旧制一高の歌の替え歌だったようです。関東大震災の年に同事件があったようで、「亀戸事件」(震災直後、官憲が震災の混乱に乗じて左翼活動家・川合義虎ら九名を虐殺した)の真相究明を訴える動きが全国に飛び火したので、「群馬共産党事件」もその流れのなかで起きた事件だったのでしょうか。戦前の学生運動史に東京帝国大学学生「高津渡」が、郷里で群馬警察の検束を受けたという記述があります。
 高津渡という人物が、伊勢崎の自由民権運動以来の革新的な気風を受け継いでいた人物なのか、菊池家と何らかのつながりがあったのかどうか興味深いですね。
御影暢雄
2009年09月23日 19:30
 前掲コメントを書いた後、伊勢崎多喜二祭HPのバックナンバーを調べていたら、菊池邦作という形が「群馬共産党事件」(1923年)に関係していて、禁固6ヶ月・執行猶予3年の判決を受けていたことが分かりました。多喜二が菊池敏清宅で座談会に来たとき、邦作氏(当時は養子先の小林姓を名乗っていた)は多喜二に「養蚕製造業 小林邦作」の名刺を渡しました。その時の思い出と伊勢崎署占拠事件を後年、随筆集「柿」に記したそうです。(伊勢崎多喜二祭HP ’09年5月14日、’08年12月8日の記事)
 高津渡という人物は、菊池家・菊池邦作氏と付き合いがあったのは間違いなさそうです。
ぱせ
2009年10月27日 00:36
高津渡は東京帝大に進みましたが、新人会に入らず、早稲田の建設者同盟に入り、事務所に住み込み、運営する側になります。後年マルクス主義歴史学者となった渡部義通と同室で「資本論」を勉強しています。同郷で慶応の川村恒一も同盟に加盟、東京高等蚕糸(今の東京農工大)の小林邦作(彼が菊池邦作で、平山知子さんの父で、画家いわさきちひろの入党推薦者です)も加盟します。彼らが建設者同盟の「農村へ」という方針を故郷の群馬で実践するわけです。高津渡については、今後深めようと思っていますが、群馬の近代社会主義運動、マルクス主義の社会主義運動を始めた人物と考えています。犬丸義一氏の『第一次共産党の研究』で、高津渡は、第一次共産党の党員として認定されているのを今日知りました。高津渡は、検束留置中に腸結核が進行し、保釈後入院しますが、若くして亡くなります。小林邦作は自らが発行した『上毛大衆』1929年12月号の表紙に高津渡の生年と没年を書き込みました。この号の巻頭論文は、邦作の「治安維持法を撤廃せよ」でした。高津渡検挙当時は、治安警察法でしたが、その本質は同じであり、身体の弱かった高津の死は、厳冬期の留置に起因するものという認識があったと思います。
未来
2009年10月29日 09:32
ぱせさん、情報ありがとうございます。

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