戦争と弾圧は手をつないでやってくる。~小林多喜二と治安維持法、憲法9条と治安体制~

画像 9条世界会議の自主企画としてタイトルの企画が開催されます。9条世界会議は5月4日~5日まで千葉・幕張メッセで開催されます。
 http://whynot9.jp/program/
その二日目5日の自主企画として、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟と「時代を撃て・多喜二」製作委員会の主催で行われます。
 実施要綱は以下の通り(「時代を撃て・多喜二」ホームヘ゜ーシ゛掲示板より転載)。
            ◇
「戦争と弾圧は手をつないでやってくる。
~小林多喜二と治安維持法、憲法9条と治安体制~」

●主催:治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟
  :映画「時代を撃て・多喜二」製作委員会

●協賛=秋田多喜二祭実行委員会、大阪多喜二祭実行委員会、小樽多喜二祭実行委員会、日本国際法律家協会、国際人権活動日本委員会、言論・表現の自由を守る会(2008年3月12日現在) 

<よびかけ>
 陸上自衛隊・情報保全隊が、「秋田・小林多喜二生誕100年記念展」をはじめ、全国41都道府県の290団体を対象に秘密に情報収集活動を行い、国民に大きな不安と憤激を巻き起こしました。1928年に第1回普通選挙が実施された1ケ月後の3月15日、全国の民主的活動家を検挙・弾圧した事件を思い起こした方々も多かったのではないでしょうか。

●小林多喜二は、身近な友人たちが不当に逮捕・拷問されていることを知り、小説でその実態を生々しく告発しました。その後も悪法・治安維持法と闘い、75年前の2月20日特高に虐殺されました。29才でした。その生涯は、ドキュメンタリー映画「時代を撃て・多喜二」(池田博穂監督)に描かれ、人々にたたかう勇気をあたえています。

●いままた、自由な言論への警察支配が強まりつつあります。戦争と弾圧は手をつないでやってきます。これは小林多喜二からの警戒警報です。

●わたしたちの宝である憲法9条を守り活かしていくために、いま目前にある人権・生存権の抑圧や言論表現の危機とのたたかいを交流する広場として自主企画で参加します。ご参集を願いします。

●9条の会、治安維持法犠牲者、各地多喜二祭実行委員会、言論弾圧事件弾圧犠牲者などと救援活動などに参加されている方々の参集、海外からの声を呼びかけます。


と き:5月5日(月・祝) 16時~18時30分

ところ:幕張メッセ・小会議室202

記念講演
講 師:荻野富士夫さん(小樽商科大学教授)「小林多喜二から火を継ぐー小樽高商軍事教練反対闘争、横浜事件、そして現代の言論弾圧事件」(仮題)

チケットのお求め、自主企画参加などのご連絡は 
●事務局=治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟=〒113-0034東京都文京区湯島2-4-4 全労連会館9F TEL03-5842-6461 FAX 03-5842-6462 chian@plum.plala.or.jp (担当小池)

/映画「時代を撃て・多喜二」製作委員会=TEL03-6320-2038

詳細は「時代を撃て・多喜二」ホームヘ゜ーシ゛掲示板を。 (担当植田)

※9条世界会議は、千葉・幕張メッセ・イベントホールを会場に、5月4日全体会(7000人)、5日国際会議場などで分科会が開催されます。

5月4日(日)全体会・音楽ライブ(イベントホール)
前売り券1,000円/当日券1,500円(中学生以下無料)
5月5日(月) 分科会(国際会議場)
前売り券1,000円/当日券1,500円(中学生以下無料)

この記事へのコメント

ai
2008年04月18日 19:06
***民主文学5月号ルポ特集感想***
一番最初の記事「貧困の岩盤に立つ若者」の読後、「―そして彼らは立ち上がった。もう一度!」という声が聞こえた気がした。幻聴ではないとは思うが。現代の「蟹工船」に乗ってたたかいながら生きている四人の若者が、「肉体も精神も」破壊されてしまっているにも関わらず、一人ずつ「立ち上がらせる」ことを可能にした報告は、まるで「蟹工船」の続きを見るようだ。
興味深いのは、「立ち上がった」でなく、「立ち上がらせる」という表現である。他人事(ひとごと)ではないと思って一緒にたたかう仲間がいるので、「立ち上がる」ことができるのだ。そういう意味で、若者の連帯は「立ち上がらせる」ことに成功している。
それでもまだ前哨戦であるということは、小説「蟹工船」とは、現代のこのような闘いのプロローグだったのだろうかという錯覚すらおこる。
ai
2008年04月18日 19:13
*前衛5月号「小林多喜二 時代に挑戦した五年間」感想*
読みながら、2月26日に開催された「小林多喜二没後75年第20回杉並・中野・渋谷多喜二際」は、私は不参加だったが、かなりの盛況で、中身の濃い集いだったのが伝わってきて圧倒された。感想を箇条書きでまとめることにする。

①なぜあんなにもリアリティーをもって迫るのかがわかった。理論だけでなく、実践を嫌というほど積まれたので、作品に生々しさを与えることができているのだと。頭で考えるだけで終わって言葉だけは達者になるのでなく、行動が伴うような生き方ができれば、と思うが理想になってしまう。なるべく「有限実行」ぢゃなく、「有言実行」の努力を、と励まされる。(私のパソコンでは、有限実行と変換される…これはいかに?)
多喜二なら、印税だけでも生活していけただろうが、作品にリアリティーを吹き込むのは芸術のためでなく、貧しい人のためであることを忘れないようにしたい。そうした生き様をし虐殺されたことを思うと、文学観への一般的な認識について、これでいいのだろうか、と疑問が残る。例えば、「小説は自由な表現なので、作者の人格は問わない」など。
ai
2008年04月18日 19:14
②私はまだ、一部の代表的な作品しか読んでいない。それでも、私の頭だけおめでたいのか、たいていの闘争を描いた作品がハッピーエンドに読めてしまい、暗いという読後感を持つ周囲から、ひとり浮いてしまっている嫌いがある。「めでたしめでたし」の認識が、人とズレてるようである。
不破氏は、多喜二の作品について、「いろいろな事件の弾圧や失敗を経験するが、立ち上がる連続的な流れ、つまり負けずに不屈にたたかう姿を描き、一回の闘争が失敗に終わっても、教訓を分析し今後に生かし続けるという闘争の特質を的確につかんでいる」と述べている。
私は、闘争というものは、「弾圧されたら負け」ではなく、「諦めないで、勝つまで闘い続けることが成功」「闘うのを途中でやめた時が負け」という甘い認識を抱いている。そんな意味で、たいていの作品がハッピーエンドに読めてしまい、希望すら見出してしまうことを自覚できた。なぜなら、最終的な勝利を信じることができずして、闘争を開始し、続けられるだろうか。「正しいということは、強い」と、私自身、組合の争議で学んでいる。
ai
2008年04月18日 19:16
(続き)正直者がバカを見るとはよく言われるが、意外と、正しいということはバカにならない。
争議でなく、何か個人的な経験で一回でも失敗すると、二度とやりたくないとヘコむこともあるが、多喜二の精神に触れると、一回の失敗くらい、何だって気になってくる。そんな熱い血流が吹き込まれる。

③蟹工船ブームで多喜二の文学に触れた者にとって、入門書になる。また、まだ読んでない作品を読む意欲を十分にかきたてられる。どの作品をどの順番で読みたいかという方向性も見出せる。例えば、「防雪林」→「不在地主」→「カインの末裔」という順番で読んで、比較分析してみたい。「カインの末裔」は有島太郎の作品だが、多喜二が「防雪林」と「不在地主」を書くのに、「カインの末裔の如き末梢神経のない人間を書きたい」と日記にしるさてれていることも紹介されていて、興味津々になってるところである。

ai
2008年04月18日 19:20
④今、小林多喜二が読まれる理由がわかった。限りある時間の中で、読書するには、何かしら目的が必要だ。人によって様々だろう。「現実逃避のため」「人生に役立てるため」などなど。なぜ、数ある文学の中でも、よりによって多喜二の文学を読みたいのか、または、なんのためにということを、自問自答してきた。
私の場合、いくら考えても一言でいえば、「おもしろいから」につきてしまう。どこがかといえば、リアルで共感できる点である。共感とは、私にとっては「癒し」に相当する。
決して、気持ちのいい話ばかりではないらしい。それでも読んでしまう。
昔に発表されているのに、決して古くない。へたをすると、今の文学より身近で、新しい。

多喜二さんは、「闇があるから光がある」と述べたが、皮肉にも闇の世の夜が深まれば深まるほど、作品群は強い光明を放っている。
だから今、全国各地で多喜二祭が開かれ、盛況するほど人々から求められ、読まれるのだろう。このように、ごくごく当たり前の結論にいたった。

この記事へのトラックバック