多喜二の「改作」問題
多喜二の「改作」問題について、島村先生からコメントが寄せられました。なおシンポジウム「《改造》直筆原稿をめぐって」に参加された人のブログを発見しましたが、こちらに横光利一の「悪魔」と小林多喜二の「工場細胞」の直筆原稿が掲載されています。
http://blogs.yahoo.co.jp/galleryimozuru/52075022.html
以下に島村先生のコメントを転載します。
多喜二の「改作」問題ですが、「プロレタリア作家」として認められる前は、似たような題材を何度も書き換えて発表していたことがあります。しかしナップを代表する新進作家として認められて以降は、例えば「不在地主」にしても、未発表の「防雪林」改作、とはいいながら、中身は全くといっていいほど変わっており、別作品になっているといっていいのではないでしょうか。
「誰かに宛てた記録」と「救援ニュース」の関係も、叙述の方法が全く変わっており、やはり「防雪林」と「不在地主」の関係と同様の特徴がみられると思います。
その理由としては、プロレタリア文学の組織としての方法論がめまぐるしく変わっていったこと、多喜二自身が次々と新しい題材と方法に取り組んでいこうとしていたということが一つ、もう一つの理由としては、昨日のコロキアムでも触れたように、多喜二がノート稿の段階で徹底的に推敲し、とにかく一度作品を完結させたと意識した段階で世に送り出したということがあるのではないでしょうか。
原稿(草稿)の問題は、近代になってからの文学のありかたを考える上で非常に大きな問題になります。昨日は時間がなくて提起できなかったこともいろいろあります。多喜二のノート稿なども、広く公開されるようになるといいと思いますね。
http://blogs.yahoo.co.jp/galleryimozuru/52075022.html
以下に島村先生のコメントを転載します。多喜二の「改作」問題ですが、「プロレタリア作家」として認められる前は、似たような題材を何度も書き換えて発表していたことがあります。しかしナップを代表する新進作家として認められて以降は、例えば「不在地主」にしても、未発表の「防雪林」改作、とはいいながら、中身は全くといっていいほど変わっており、別作品になっているといっていいのではないでしょうか。
「誰かに宛てた記録」と「救援ニュース」の関係も、叙述の方法が全く変わっており、やはり「防雪林」と「不在地主」の関係と同様の特徴がみられると思います。
その理由としては、プロレタリア文学の組織としての方法論がめまぐるしく変わっていったこと、多喜二自身が次々と新しい題材と方法に取り組んでいこうとしていたということが一つ、もう一つの理由としては、昨日のコロキアムでも触れたように、多喜二がノート稿の段階で徹底的に推敲し、とにかく一度作品を完結させたと意識した段階で世に送り出したということがあるのではないでしょうか。
原稿(草稿)の問題は、近代になってからの文学のありかたを考える上で非常に大きな問題になります。昨日は時間がなくて提起できなかったこともいろいろあります。多喜二のノート稿なども、広く公開されるようになるといいと思いますね。
この記事へのコメント
「山本宣治=佐々木敏二1998」では、函館は1928・12・2となっていました。以下に当時の新聞記事紹介します。
○ 函館日日新聞(夕刊)1928(S3)12月2日付け
「山本代議士 新党準備遊説隊一行『新党組織準備会の遊説隊山本宣治代議士一行は既報の如く今二日午後九時入港の連絡船にて来函、直に小樽へ向ふが明日小樽演芸館にて演説会を開き各地(札幌・旭川)遊説の上帰途函館にでも同様開催すべく加藤弁護士が一行出迎への為渡青した。』」
○ 函館日日新聞(夕刊)1928(S3)12月3日付け
「新党準備演説『新党組織準備会の山本宣治代議士本部特派溝上彌久馬氏は来る六日函館劇場に於て演説会開催の筈』」♪
新労農党準備「新労農党準備会代議士山本宣治並に本部常任執行委員溝上彌久馬両氏はさる十二月二日正午(?)来道直に小樽、札幌、旭川の結党準備のために遊説の途に就た。因(ちなみ)に六日夜六時半より函館劇場新労農党結党準備大演説会を開催することになった辯士左の如し
○ 新労農党とブルジョア議会 中央執行委員代表 山本宣治
○ 労働階級と吾党の歴史
中央常任執行委員 溝上彌久
○ 既成政党と無産階級
加藤 貫一
○ 労働者階級に課せられたる歴史的使命
津村 二郎
○ 電 賃値上絶対反対 曾根 銀次
○ 労働者団結せよ 福津 昌雄
○函館演説会の様子。(2紙)
○旭川演説会
訂正:最後の日付「12月5日」
訂正:溝上彌久は「溝上彌久馬」
もっとブログの皆さんに分りやすく説明すると。「蟹工船」が出航した「桟橋」の近くに在りました。
鈴木治亮等共産被告押送 明五日午後零時半列車で 11名札幌へ
○ 函館日日新聞(夕刊)1928(S3)12月7日(金)巧みに急所避けて 一時間の熱弁 山本宣治代議士 其他何れも中止検束「当市に於ける新労農党結成準備会の大演説会は昨六日午後六時四十五分より函館劇場に於いて本部より特派されたる新労農党準備会代議士山本宣治及び中央常任執行委員 溝上彌久馬氏を迎えて開催されたるが折柄の風雪のため聴衆僅か二百名にして定刻鈴木函館署次席警部臨席のもとに開会となり津村二郎氏開会の辞に合せて左の演壇にて弁じたるも直に中止検束となり、次の曾根銀次は無事し、次の中央執行委員 溝上彌久馬は演説の最後に及んで『我々新労農党結成準備会はきたる223、4日の三日間に亘りて開催される』云々と述べ是また直に中止を食う。次いで舊(キウ)労農党代議士山本宣治氏は登壇の上巧みに急所をさけて、既報の演題のもと約1時間に亘りて熱弁を振るひたる後、司会者に代りて山本代議士より閉会を述ぶる処あり、かくて当市に於て新労農党準備会の演説を終えたのは九時四十分であった。
新労農党演説・検束者一名
「六日午後七時より函館劇場に於て新労農党結成準備演説会を開催したが聴衆約二百、定刻津村二郎氏開会の挨拶を述べ引続き『労働者階級に課せられた歴史的使命』に就いて説く所あり當に其核心触れんとするや臨官席より中止の命下り其儘検束となり、次いで函館一般労働組合曾根銀次氏「『新労農党結党万歳、労働者団結せよ』の題下に中止を受けることなく冗(ジュウ)々と説き去ったが降壇と同時に検束となり、中央常任執行委員 溝上彌久馬氏『労働階級と歴史的使命』の題下に豊富な例を引いて熱弁を奮って降壇。中央執行委員代議士 山本宣治『新労農党とブルジョア議会』の演題で議会内に於る資本家の内面的勢力を如実に説き来るべき議会には無産者より選まれたる議員として無産者の福利に向って自己の使命を果す所あるべしと約一時間半に亘る熱弁を試み午後九時四十分閉会した。」
旭川演説緊張「旭川電話:新党準備会旭川主催地盤拡張大演説会は、五日午後六時から市内旭座に開会。本部特派の舊(キウ)労農党代議士山本宣治氏及び上村、進藤、村上の各執行委員其他準備会同志出席。各弁士交々起って熱弁を振ひ、山本代議士は産児制限問題に言及し、 『胃袋に孝ならんとせば子宮に忠ならず、子宮に忠ならんとせば胃袋に孝ならず』と暗黒政治を政撃し問題の中心に触れるや直に注意、中止、検束の連発が場外非常に緊張したが九時過ぎ新党準備会の万歳三唱裡に無事閉会した。この日来聴者場内外に溢れ旭川署員の警戒も時節柄厳重を極めた。
○ 12月3日「山本宣治」は小樽「つるや旅館」に宿泊していたことは、藤田廣登氏の「その盟友たち」に記載されていますが(風間六三の思い出)
①12月3日(火)何処に宿泊したのでしょうか。
「小樽」かな。「函館」かな。
②『29年2月8日予算委員会で「函館事件」を相当』
追求していますが、何時調査聞込みをしたか?
③小林多喜二は、『小樽の演説会には行かなかった?』
と、私は思います。(山本宣治は、多分『戦旗11・12=1928・3・15』を知っていたと思われますが。
※12・6斉藤次郎あて書簡「僕は今、小樽での有力な要視察人になっている。」
※1・09同「時々特高刑事におびやかされている。銀行も長いことはない。
※演説会の参加には相当の躊躇いがあったと思われます。
※何よりも多喜二は、演説会に参加をしていれば「誰かに」そのことを書き送っていたと思います。
正:「12月2日」でした。
1928年12月2日「函館演説会」を
1928年12月6日「函館劇場にて・山本宣治代議士等による『新党結成準備会大演説会』官憲威圧のもと開催さる。聴衆風雪の中200名超える」
○ と年譜の変更を書き込みます。
日に日に新たなリとはいいますので、同じ題材のものでもこだわりけて、新しい作品を生み出されたのかなって。
努力する天才で、安堵を覚えます。
僕は勉強しました。(a i さん・これでいいかい:多喜二は小説を起稿するにあったて字句をさまざまに考え練ったとういうこと)と、例えば「邂逅」・「寡聞」とかいう訳の分らない熟語は使わずにね。。
でもこのブログで「推敲」の書き込み始めてです。