小林多喜二と横光利一

 めいさんから横光利一文学会に参加された感想が寄せられました。以下に紹介します。
 今日は、東洋大学で行われた横光利一文学会を拝聴しに行きました。目当ては、島村輝先生がディスカッサントとしてご参加されるコロキアム「横光利一の直筆原稿の陰影」でした☆横光は、「改造」の作家と呼ばれるほど「改造」に多く発表していましたが、編集者との関係も密で、共同作業もあるほどだったようです。編集者の提案でタイトルも変更することもあったようです。原稿をみても、すごく言葉の出し入れが多く、完成形とは呼べないほど真っ黒です。また、加筆・訂正も多かったり、前に書いてもう活字になってしまったものを再び見直して取り入れていくこともあったようです。これに対して多喜二の原稿をみると、すごくキレイで、完成した状態で編集者の手に渡してるようです。また、「不在地主」の最後の部分が、編集者に勝手にカットされたことで多喜二はショックを受けてしまいます。編集者との関係が、利一と多喜二ではだいぶ違うのだなということがわかって面白かったです。

 また、島村先生のお話では、宮沢賢治は自分の作品に対しては「永遠の未完成」といった考えを持っていたようで、すでに流布してる自らの著作にも手を入れたそうです。しかしそれを再びメディアで発表することなどに拘ってはいなかったようです。利一も、それに似たものがあったらしく、ギリギリまで手を入れるタイプだったようです。多喜二は、自分の過去の作品は「野糞のように」踏みつけていくんだ、と言ってるように、過去の作品には興味はなかったのではないか、とコメントしていらっしゃいました。

 shima先生、ちょっと質問なのですが、私としては多喜二は、結構改作を重ねて、一つの作品をいじくったり、「誰かに宛てた記録」もすでに『北方文芸』に載せてあるのに、また改作して今度は『戦旗』に「救援ニュース」として載せたりと、結構過去の作品に手を入れるタイプかと思っていたのです。。。確かに多喜二は、後に「蟹工船」でさえ「野糞」と切り捨てている文を書きますよね。多喜二は、銀行員の傍ら、文学修行しているときは一つの作品をこねくりまわしてましたが、文学者一本になって、そういったものと決別しようとしたのでしょうか?

 ええ、芸術家が、すでに公に出てしまった作品に手を入れるのは、自らの作品への愛着のための行為のように思えます。多喜二の芸術は、自分自身のための芸術というより、やはり「飯を食へない」人たちのためのものだったから、多喜二は、過去のものをいじるより、よりすぐれた新鮮な作品、時代の息吹をリアルタイムで反映する作品を生み出すことにエネルギーを注ごうと決意したのでしょうか??

この記事へのコメント

Prof. Shima
2008年03月30日 10:33
めいさん、ご来場ありがとうございました。新感覚派映画として名高い「狂つた一頁」と、金融ブルジョア一族に起こる殺人事件を描いた「家族会議」についての、若手の皆さんの発表のあと、横光の手書き原稿について、ディスカッションをしました。めいさんが書かれているように、ぼくは多喜二の「工場細胞」などの清書原稿と横光の「草稿」とも呼ぶべき、言葉の出入りの跡を残した原稿とを比較しました。

多喜二の「改作」問題ですが、「プロレタリア作家」として認められる前は、似たような題材を何度も書き換えて発表していたことがあります。しかしナップを代表する新進作家として認められて以降は、例えば「不在地主」にしても、未発表の「防雪林」改作、とはいいながら、中身は全くといっていいほど変わっており、別作品になっているといっていいのではないでしょうか。
Prof. Shima
2008年03月30日 10:39
「誰かに宛てた記録」と「救援ニュース」の関係も、叙述の方法が全く変わっており、やはり「防雪林」と「不在地主」の関係と同様の特徴がみられると思います。

その理由としては、プロレタリア文学の組織としての方法論がめまぐるしく変わっていったこと、多喜二自身が次々と新しい題材と方法に取り組んでいこうとしていたということが一つ、もう一つの理由としては、昨日のコロキアムでも触れたように、多喜二がノート稿の段階で徹底的に推敲し、とにかく一度作品を完結させたと意識した段階で世に送り出したということがあるのではないでしょうか。

原稿(草稿)の問題は、近代になってからの文学のありかたを考える上で非常に大きな問題になります。昨日は時間がなくて提起できなかったこともいろいろあります。多喜二のノート稿なども、広く公開されるようになるといいと思いますね。
めい
2008年03月30日 21:17
shima先生、昨日はすばらしいご発表でした。そして、廈門から帰られてすぐの学会でのご発表ということで、ほんとうにお疲れ様でございました!そして早々のご返事ありがとうございました!なるほど!です^^確かに、改作といえども、別作品といってよいほどのアレンジですものね。私も、他の作家を研究して、多喜二の改作の特長をもっときちんと把握したいです。こうして、ノート稿→原稿→活字になったものをみていくと、作家・多喜二の個性が伝わってきますよね。今度のどこかの多喜二祭で、昨日のご発表をまた講演されたらいいなぁと思います!多喜二文学ファンには鼻血ものかもしれません!!
ai
2008年03月31日 21:41
「文学」としての小林多喜二をちょびちょびと拝読してます。なんで「循環小数」という表現が多いのか少し分かりました。「最後のもの」で初めてこの表現を読んで、独特で気になりました。やはり、多喜二さんの日記を読みたいですね。
akio
2008年04月02日 22:40
「日記」送った「ファイル」に。

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