小林多喜二と石川啄木

 akioさんから石川啄木と多喜二について書き込みがありました。以下に転載します。
 今日「大阪民主新報」みましたら「4・13:2008年啄木祭in大阪」の記事に目がとまりました。
第2部=「啄木を歌う」(ケイ・シュガー)です。(主催=新日本歌人協会)
この記事(2008・3・30付け)は、大事にファイルしなければなりませんね。

 実は、2006年2月18日に函館で「小林多喜二へのレクイエム」の集会がありました。その時、ケイ・シュガーさんが、「初恋:石川啄木の短歌に越谷達之助が作曲した有名な日本歌曲」を唄ってくれました。
 『砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日』 このような詩だったと思います。

 私の若きころは、「石川啄木」・「若山牧水」・「蟹工船」が愛読書でした。(本は、これしか家に無かったのがほんとうかな?川口松太郎「皇女和宮」は難しくてチョットネ)
 小林多喜二が「石川啄木」のこと書いていますね。紹介します。♪

1927年2月15日 田口瀧子 あて
 「啄木の歌にはいいものは非常にいいが、飛んでもなく変なものもある。それで、僕が一番すうと読んでみて、これならばと思われるのを選んでみた。歌の肩に印をつけているのがそうだ。印のした歌くらいは暗記をしていなければならない。寝る前に二つ三つ覚え、次の日仕事をしながら、一生懸命暗記するのだ。そうして覚え、時々口ずさんでみると歌の味いが、丁度スルメ(?)をかみしめるように、出てくるものだ。意味の分らないことがあったら、手紙に書いてよこせば、書いてやる。」・・中略「出来たら手紙に書いて寄こせ、そうすれば、直してあげるから。歌人ではないが、もとこれでも作ったことがあり、(後述)又煎じつめれば歌も小説も同じことだから。啄木の歌を手本にして、作ってみればいいよ。始めは啄木のものを真似をしていいから。では。 それから手紙が又来ないかのでがっかりしている。」♪ 

♪(後述):「歌の肩に印」akioが選んだ三首。?
『一握の砂=1910年11月発刊』から
① 東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
② 砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いあみを遠く おもひ出づる日
③ やわらかに 積れる雪に 熱てる頬を 埋むるごとき 恋してみたし
(恋歌ばかりだったかも知れません。この時期は瀧ちゃんばっかでしたから。)

 多喜二は1919年秋から1920年にかけて、小樽等の短歌会に参加しています。しかし、その作品をみますと「恋歌」は有りませんネ。詩は1920年4月「北海道の冬」を投稿し「西条八十」の選評を受けています。
○ノート稿1920.2.7「夜、我が友島田君と片岡君と一室に集い夜通し作歌。我は僅か23首に過ぎず。」 

多喜二の1920.4.7短歌
 春まひる 砂山かげに うずくまり うつつなにきく 波の音かも

この記事へのコメント

マイケル・ムーアの証人
2008年03月30日 22:04
「されど、誰一人、握りしめたる拳で卓を叩きて、”ヴ・ナロード(=人民の中へ:ロシア語。ロシア革命前史の学生・知識人らによるナロード二キ運動のスローガン)”と叫び出るもの無し。」と、歌った啄木の時代精神を、多喜二は真摯に受け継いで、近代日本文学の新しいジャンルを切り拓いたと言えるのではないでしょうか。
akio
2008年03月31日 21:56
はい!!また勉強です。(M・ムーア)さん。

『改造社』が1928年11月に「石川啄木全集5巻」を出版しています。(一冊1円:漁夫の一日分位か?)

1928年12月4日付「函館新聞」♪痛ましき先駆者情熱の詩人啄木の全集成る。彼の思想と芸術は月と共にその光鋩愈加はり、凛々現代に生き、儼乎として「明日」を指呼す。彼は新しき現代に何を呼びかけ、何れを指標した?全日本の大衆よ!彼の真の姿を掴め。彼の理想を復活せ!而して彼を愛読せ。♪ 宣伝文言。
 監輯:金田一京助・土岐善磨
○ 新聞半面を使っての広告です。
 
この全集、もしかして「図書館」に在ったりして?
ai
2008年04月01日 16:57
akioさん、例の品届きました。
有難うございます。
感激中です。
マイケル・ムーアの証人
2008年04月01日 20:52
「我は知る、テロリストの哀しき心をー」(啄木)
この歌を詠む時、「灰とダイヤモンド」(ポーランド映画 A・ワイダ監督)の主人公マチェックを思いだすのですが、AKIOさんは如何でしょうか?
 埴谷雄高が高橋和巳に書いた手紙の中で、この映画のことに言及していることを最近知りました。
akio
2008年04月01日 21:35
ai さん。大月源二の挿絵って80年前のですね?
こんな素敵なカット(挿絵)描ける人、って、私同郷として嬉しいんです。ですから「ブログ新家族」のaiさんにお贈りしました。(あなたの心のケースに保管してくださいね(^.^)
akio
2008年04月01日 22:00
M・ムーアさん。
またまた、勉強です。(いつか『石川啄木』の資料)むっちゃ勉強します。(その間、ご教示お願いします。)いま。回答出来る状態にはないのです。
 いまね?「多喜二の偉業とその盟友たち」の起稿(書込み)で精一杯でして。
 石川啄木が「大逆事件=幸徳秋水」のことおおいに意識していたことは『石川啄木=加藤悌三1967.12』(蔵書)で読んだ事あるのですが。。「我は知る、テロリストの哀しき心を-」初めて知る詩です。(もしかして大逆事件と関係ない??)
 では。またお願いします。
マイケル・ムーアの証人
2008年04月01日 22:30
「はてしなき議論の後」(”V NAROD”と叫びい出ずるものなし”)に続く、「ココアの一匙」の詩が、”我は知る、テロリストの哀しき心を”で始ります。大逆事件の衝撃を受けた後、啄木がこの詩を詠んだようですね。
マイケル・ムーアの証人
2008年04月02日 21:00
「ココアの一匙」は大逆事件の約一年後の作とされています。啄木は事件の本質が、でっちあげ=えん罪であることを知った数少ない知識人の一人であり、事件の後、急速に社会主義の勉強を深めました。啄木の遺作集となった「悲しき玩具」にも次の歌が収められていますね。

 友も、妻も、かなしく思うらしー
  病みても猶、革命のこと 口に絶たねば

 やや遠きものに思いし テロリストの悲しき心もー
  近づく日のあり

 蔵原惟人は、多喜二が啄木の正統的な後継者だと断じたそうですが、まだまだ深い洞察がこれからも出てきそうですね。啄木の「ローマ字日記」についても、私はまだ全部を拝見したことがないので、今後の課題としたいです。
akio
2008年04月02日 23:34
♪マイケル・ムーアの証人さん♪
石川啄木は1909年4月1日「ああ予は束縛小樽のがれたい・・」この時期日本の文字で書かれた最後の日記。
1909年4月7日大学ノートにローマ字日記を書きます。(妻節子に読まれたくない、と言う説??)
紹介しましょう。1909・APRIL 7TH
hareta sora ni susamajii oto wo tatete hagesii nisi-kaze ga fuki areta. sanngai no mado to yu mado wa taema mo naku tatinobotta hokori ga sara-sara to hukikomu sono kuse sora ni tirabatta siroi kumo wa titto mo ugokanu gogo ni natte kaze wa yo-yo otituita
こんな日記です。」
akio
2008年04月02日 23:39
又訂正:ごめん
誤:「束縛小樽」(変な単語登録しちゃって、)
正:「束縛をのがれたい・・」
akio
2008年04月02日 23:45
ムーアさんごめんなさい。
「全部を拝見したことがないので」という書き込み誤解していました。先程の紹介、当然拝見していたのですよね。
マイヶル・ムーア
2008年04月03日 19:50
AKIOさん、コメント有難うございます。ローマ字日記、谷崎潤一郎の「鍵」の世界と共通するものがありそうですね。啄木のローマ字日記は、長い間研究者の一部にしかその存在が知られていなかったそうですね。(内容が赤裸々すぎて)
 御興味のある方は”石川啄木 ローマ字日記”で、その日記の一部をご覧ください。
マイケル・ムーアの証人
2008年04月04日 21:29
”石川啄木 ローマ字日記”を掛け合わせて、yahoo等の検索をして頂くと、ローマ字日記に関する情報が色々、出てきます。
 ”日々を慰安が吹き荒れてー”そんな生活が啄木の寿命を縮めた、いや若死の予感が啄木をそうした生活に駆り立てた・・・どちらも正しいように私には思えます。

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