声に出して読む多喜二

 今日は午後3時から保存会の「声に出して読む多喜二」がありました。朝から一仕事終わらせて、参加しました。勤労協の事務所に行ったら、「今日は何?」と聞くので、「今日は、多喜二を読む会」って言ったら、「多喜二を飲む会?」って聞き返されました。あはは、たしかに、終わったら「飲み会」だけど・・・。
 今回から「オルグ」を読み始めました。声に出して読むって、なかなか難しいですね。終わったあとはいつもの「飲む会」といきたいところだったのですが、7時からは地元の演説会があり、生ビール1杯だけ飲んで、地元に帰りました。
 いま、やっと、ひとりで「飲む会」をやっています。笑。

この記事へのコメント

めい
2008年03月30日 00:31
多喜二in大阪言葉、聞いてみたいです♪今日は、東洋大学の行われた横光利一文学会を拝聴しに行きました。目当ては、島村輝先生がディスカッサントとしてご参加されるコロキアム「横光利一の直筆原稿の陰影」でした☆横光は、「改造」の作家と呼ばれるほど「改造」に多く発表していましたが、編集者との関係も密で、共同作業もあるほどだったようです。編集者の提案でタイトルも変更することもあったようです。原稿をみても、すごく言葉の出し入れが多く、完成形とは呼べないほど真っ黒です。また、加筆・訂正も多かったり、前に書いてもう活字になってしまったものを再び見直して取り入れていくこともあったようです。これに対して多喜二の原稿をみると、すごくキレイで、完成した状態で編集者の手に渡してるようです。また、「不在地主」の最後の部分が、編集者に勝手にカットされたことで多喜二はショックを受けてしまいます。編集者との関係が、利一と多喜二ではだいぶ違うのだなということがわかって面白かったです。
めい
2008年03月30日 00:59
また、島村先生のお話では、宮本賢治は自分の作品に対しては「永遠の未完成」といった考えを持っていたようで、すでに流布してる自らの著作にも手を入れたそうです。しかしそれを再びメディアで発表することなどに拘ってはいなかったようです。利一も、それに似たものがあったらしく、ギリギリまで手を入れるタイプだったようです。多喜二は、自分の過去の作品は「野糞のように」踏みつけていくんだ、と言ってるように、過去の作品には興味はなかったのではないか、とコメントしていらっしゃいました。shima先生、ちょっと質問なのですが、私としては多喜二は、結構改作を重ねて、一つの作品をいじくったり、「誰かに宛てた記録」もすでに『北方文芸』に載せてあるのに、また改作して今度は『戦旗』に「救援ニュース」として載せたりと、結構過去の作品に手を入れるタイプかと思っていたのです。。。確かに多喜二は、後に「蟹工船」でさえ「野糞」と切り捨てている文を書きますよね。多喜二は、銀行員の傍ら、文学修行しているときは一つの作品をこねくりまわしてましたが、文学者一本になって、そういったものと決別しようとしたのでしょうか?

めい
2008年03月30日 01:09
すみません。。ねむくて頭が働かなくなってきました。。二番目のコメントの第一行目、宮本賢治→宮沢賢治です(笑)。そして一番目のコメントの二行目、助詞が変なところありますね。東洋大学「で」です。ごめんなさい!
ええ、芸術家が、すでに公に出てしまった作品に手を入れるのは、自らの作品への愛着のための行為のように思えます。多喜二の芸術は、自分自身のための芸術というより、やはり「飯を食へない」人たちのためのものだったから、多喜二は、過去のものをいじるより、よりすぐれた新鮮な作品、時代の息吹をリアルタイムで反映する作品を生み出すことにエネルギーを注ごうと決意したのでしょうか??ああ。。やっぱりねむくて。。みなさん長々とごめんなさい!!頭を冷やしてまたきます!
ai
2008年03月30日 15:55
興味深い議論ですね。めいさん、あとでメールにて分からないところを質問しちゃうかも。
朗読は、めいさんも、迫真込めて十分いけまっせ!
初期短編の感想、どこに入力しようかさんざん迷ったあげく、ここにします。
ai
2008年03月30日 15:58
講談社文芸文庫の小林多喜二初期短編集に収録されている短編「最後のもの」も読んだが、次の肉筆などを読んで衝撃を受けた。これも現代やんけ!と。
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誰だってこの世の中の
多くの生活を考えてみれば、
頭が灰色になってしまう。
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貧乏な者に残されているものは
「死ね」ということしかないらしい。
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私も頭がよく灰色になる。
たびたび、「死ね」っていうメッセージが聞き取れるし、いたるところで、「金がなければ死ねっていわれてるようだ」「年寄りに死ねといってるようなもんだ」という会話を耳にする。
多喜二さんが描かれた世界を、もう、いちいち現代だ!と驚くのはよそうと決意した。
ai
2008年03月30日 16:00
次いで、「薮入り」の感想です。
初期短編集において、一番ページが少ないので、一番最初に読んだ。
弟を犠牲にして学問できるのを一種の搾取?というふうにとらえる主人公のまじめさと感受性にヒヤッとする。
私も、似た思いをしてたことがある。親が、自分のために、好きでもない仕事をして自分を養っているのを見て、子供心に、親が犠牲になっていると思っていた。
私が感じた「犠牲」を、さらに「搾取」という表現にまで発展しいる。実際、自分が親になったら、子に何でもしてあげたくなるのだろうけれど。
自覚せざる搾取を、誰かに強いてたり、強いられたりしながら生きてるものなのか。
どこからどこまでが、搾取で、搾取でないのか、たまにごっちゃになることがよくある。
そのあたりに共感。
ai
2008年03月30日 16:32
あ、「肉筆」は誤りです。
「生々しい」という言葉の表現を間違えました。
akio
2008年03月30日 21:39
「最後のもの=『師走』を改作」を読んでいる時にね。 aiさんとは別な意味で「アレー!」たしか「哲夫から恵子への手紙が」、前年の3月2日に「瀧ちゃん」あての手紙の冒頭と同じなのに気付きました。
「闇があるから光がある。・・・」あの有名なラブレターです。

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