大阪と小林多喜二
昨日は大阪多喜二祭の打ち合わせ。一杯飲んで盛り上がりました。出来上がった頃にケイさんも合流して、あれやこれやと脱線が多すぎる準備会でした。まあ、8月に本格的な実行委員会の立ち上げ、それまでの私の宿題などは明確にしたので、昨日は第一歩の日として有意義でした。
takahashiさんから、大阪と多喜二の関連についてコメントをいただきました。以下、紹介します。
小林多喜二の小樽高商(現小樽商科大学)の後輩、佐々木憲昭さんは、平和への願いを込め「憲昭」と名づけたといいます。多喜二が学んだ大学に1964年に入学、日本共産党との出会って入党(1965年)。その後、大阪市立大学の大学院で学ぶ(1968年)。『大阪民報』でもよく政策論を展開したようです。
大阪多喜二祭のスピーカーの一人として考えてもいいかもしれませんね。
1928(昭和3)年3月15日は治安維持法の名のもとでの悪名高い「政治弾圧の日」であった。小林多喜二は、小説家としてこの事件を基に調査して傑作『1828年3月15日』をしたためた。他方、山本宣治は代議士として小樽など各地を調べまわり、事実にもとずく国会内の暴露を行った。そして1929年3月3日、全国農民組内大会が大阪中の島公園で催され、山宣は下阪して挨拶をし、宇治の自宅に立ちより妻子と最後の一夜を過ごした。その2日後の3月5日、宣治は東京・神田の光宋館に投宿した。その夜、芝浦の労働組合員と偽って面会を求めてきた右翼七生義団の黒田保久二(37歳)の鋭い刃先は宣治の頸動脈をつき、宣治は血まみれの格闘の後息絶えた。41歳だった。なお、犯人は同年4月30日、保釈出所となったという。山本宣治と「大阪」、「3・15」を結ぶ存在として小林多喜二がいることは奇縁といえる。
中の島公園といえば、その公園にあるブロンズ 「緑の賛歌」( 高さ430センチ 制作1973 設置1973.4)は、「小林多喜二文学碑」(小樽)を制作した本郷新の作品ですよね。
大阪を舞台としたマンガ『じゃりんこチエ』
3巻129頁
22巻207頁に、
▼レイモンド飛田「ワシら蟹工船みたいな生活しとるんやで」
チエ「な…なにみたいやて…?」
レイモンド飛田「ワシが若い時見て涙流した映画や」
▼小鉄「まるで蟹工船みたいや」
なんていう会話がありますよ(笑)22巻207頁
佐々木憲昭さんのところに書き忘れたことがあった。
小樽商科大学の同窓会誌『緑丘』で、小林多喜二の文学碑建立のための呼びかけとして発行された小林多喜二特集を発行したのは、どういうわけか緑丘会の大阪支部だったんです。
ちょっと驚きますよね。
私の知っているかぎりの、多喜二と大阪の縁を紹介してみました。
あっと、忘れてた。もう一つ書けるかも・・・。
でも、それはまたこの次ということで(笑)
takahashiさんから、大阪と多喜二の関連についてコメントをいただきました。以下、紹介します。
小林多喜二の小樽高商(現小樽商科大学)の後輩、佐々木憲昭さんは、平和への願いを込め「憲昭」と名づけたといいます。多喜二が学んだ大学に1964年に入学、日本共産党との出会って入党(1965年)。その後、大阪市立大学の大学院で学ぶ(1968年)。『大阪民報』でもよく政策論を展開したようです。
大阪多喜二祭のスピーカーの一人として考えてもいいかもしれませんね。
1928(昭和3)年3月15日は治安維持法の名のもとでの悪名高い「政治弾圧の日」であった。小林多喜二は、小説家としてこの事件を基に調査して傑作『1828年3月15日』をしたためた。他方、山本宣治は代議士として小樽など各地を調べまわり、事実にもとずく国会内の暴露を行った。そして1929年3月3日、全国農民組内大会が大阪中の島公園で催され、山宣は下阪して挨拶をし、宇治の自宅に立ちより妻子と最後の一夜を過ごした。その2日後の3月5日、宣治は東京・神田の光宋館に投宿した。その夜、芝浦の労働組合員と偽って面会を求めてきた右翼七生義団の黒田保久二(37歳)の鋭い刃先は宣治の頸動脈をつき、宣治は血まみれの格闘の後息絶えた。41歳だった。なお、犯人は同年4月30日、保釈出所となったという。山本宣治と「大阪」、「3・15」を結ぶ存在として小林多喜二がいることは奇縁といえる。
中の島公園といえば、その公園にあるブロンズ 「緑の賛歌」( 高さ430センチ 制作1973 設置1973.4)は、「小林多喜二文学碑」(小樽)を制作した本郷新の作品ですよね。
大阪を舞台としたマンガ『じゃりんこチエ』
3巻129頁
22巻207頁に、
▼レイモンド飛田「ワシら蟹工船みたいな生活しとるんやで」
チエ「な…なにみたいやて…?」
レイモンド飛田「ワシが若い時見て涙流した映画や」
▼小鉄「まるで蟹工船みたいや」
なんていう会話がありますよ(笑)22巻207頁
佐々木憲昭さんのところに書き忘れたことがあった。
小樽商科大学の同窓会誌『緑丘』で、小林多喜二の文学碑建立のための呼びかけとして発行された小林多喜二特集を発行したのは、どういうわけか緑丘会の大阪支部だったんです。
ちょっと驚きますよね。
私の知っているかぎりの、多喜二と大阪の縁を紹介してみました。
あっと、忘れてた。もう一つ書けるかも・・・。
でも、それはまたこの次ということで(笑)
この記事へのコメント
・・・が、思いつくものといったら、芋のお餅と、よくオルグで使う「汁粉屋」ぐらいしか・・・。大阪の皆様は舌がこえているので、どうですかね~
佐々木憲昭さんって、函館の隣町(北斗市・旧上磯町)生まれで、函商卒業(小樽商大卒)で、函館ゆかりの人デース!
もしかして「多喜二ラーメン」が定番の時アキオちゃんも大阪まで行くか!!(暫く大津の姉夫婦にも合っていないし)
アキオちゃん馬鹿だね??図書館行ってさ「山宣」ゲットしたこと喜んでいたでしょう??
我が家の小さな本箱で「昭和史」探していたらね。。「山本宣治・上下『佐々木敏二・1998』ドーント下段にあるではないか。恥ずかしい。読んだ雰囲気ゼロです。
8年ぶりに、このブログのおかげを持ちましてよみがえりました。(高価でしたよ!)(@o@)
◇
多喜二祭は通常二月、季節は寒さ厳しいころです。お汁粉やラーメンで体を温めることはおそらく喜ばれるでしょうね。
除夜の鐘を撞きににいく深夜、近くの商店街の方々がお汁粉コをサービスしてくれたことを思い出します。
昨今はこの商店街もシャッターを閉めたままで、このサービスもとり止めになってしまいましたが・・・。
多喜二ラーメンは、私も食べたいのですが、誰が作るのですか?
アキオちゃんの本棚にはどれぐらい本が詰まっているのですか?忘れるほどとはすごい!と言いながら、私も持っている本を買ったことがあります。