『東倶知安行』の意義と発表誌への疑問

 『東倶知安行』の位置づけと発表誌の疑問についてtakahashiさんからコメントが寄せられました。たまたま土井大助『小林多喜二』(1979年・汐文社)を読んでいたら、多喜二が『東倶知安行』について書いている文章が引用されていました。

 「この作品はその芸術的価値は別として、私には忘れられない意義を持っている。それはただ単に『私自身』のことを書いているという理由からではなしに、当時の(1927-1928年頃)の日本のプロレタリア運動が通ってきた一つの面がその中に描かれているからである。日本に於ける最初の普選をモメントとして、勿論労働者農民が己の自らの活動舞台へ登場してきたのではあるが、それにもまして、何処の国でもその運動の初期に最も著しく、あらわれる急進的な知識階級のホウハイとした合流であった。その一端にふれているのだ。
 だから、成る程その作品は私自身のことを書いたのではあったが、その私自身のことを通して一つの歴史的事実を示しているという意味で、個人的な経験範囲を超えていると考えられる」

 以上が多喜二の『東倶知安行』についての引用ですが、この文章が『一九二八年三月十五日』に関して書いているところに、takahashiさんの位置づけの鋭さを感じました。『東倶知安行』発表の経緯をどこかで読んだのですが、今は思い出せません。以下takahashiさんのコメントです。

 「東倶知安行」は、1928年9月に完成、文芸春秋社の『創作月刊』に応募したものの、採用されず没原稿となっていた作品だ。多喜二が東京で検挙されていた1930年末の12月号に発表された。この作品は、「一九二八年三月十五日」の前編に位置づけて読むことをお勧めしたい。なぜ「三月十五日」に特高が、あのような全国一斉検挙に踏み込んだのかということを実によく分かるように描かれていると思う。また「総選挙と『我等の』山懸」を読まれることを勧めたい。それにしても9月完成というのはどういうことか理解できない。「三月十五日」は8月17日完成にし、すでに『戦旗』の蔵原惟人の元に送られている。ならばなぜその闘いの前章ともいえるこの「東倶知安行」が『戦旗』でなく、文芸春秋社なのだろうか?

この記事へのコメント

御影暢雄
2006年06月12日 23:04
大逆事件に衝撃を受けた石川啄木は、おそらくその事件の後と思われる時期に、「果てしなき議論の後にー」という詩を書いています。私は中学1年の頃からこの詩を知っていましたが、詩の大意について自分の解釈に自信を持てていませんでした。
私の解釈は、「色々と果てしなく議論を交えはするが、私も私の友人も、誰一人、ロシアのナロード二キ運動家のように”人民の中へ!”と訴えて、社会変革の運動に出発する者はいないじゃないか-という自嘲めいた内容。」というものでした。
実はこの解釈について、伊豆利彦先生にメールで質問しましたところ、それで良いとうご返事でした。
「東倶知安行」には幸徳秋水の思い出話を繰り返す老人が描かれていますが、啄木ー大逆事件ー多喜二という繋がりを、私は感じざるを得ません。啄木が多喜二に与えた影響も、多喜二の文学を理解する一つの手がかりとして勉強してみたいです。
奇しくも多喜二が幼少時、啄木は一ヶ月位同じ小樽の空の下で暮らしたことがあるそうですね。蔵原惟人は、北村透谷・啄木・多喜二の相似性を論じた評論を書いていますね。彼らの共通項も、もっと深く分析したいです。
takahashi
2006年06月12日 23:18
1924(大正13)年 多喜二20歳の春、高商卒業論文に失業家庭の悲惨な生活を描いたアルフレッド・スートロの戯曲「見捨てられた人」を翻訳、さらにクロポトキン著「パンの征服」の翻訳をしている。
その前後には、高商図書館蔵書『大杉栄全集 正義を求める心』が「クロポトキン『青年に訴う』第10章部分」を削除され空白となっていることに抗議し、その部分を自身で翻訳し、そこに書き込んでいる。
 そこには 御影暢雄さんが興味を抱いている大杉栄―関東大震災後の弾圧、大逆事件―幸徳秋水につながる問題意識をうかがうことができます。
takahasgi
2006年06月12日 23:53
ふと考える。もし「東倶知安行」が『月刊創作』に掲載されたとする。そうすると、多喜二のプロレタリア作家としての第2作目という位置を得ていたのだろうか。そうすると当然、「蟹工船」はその後の第3作目となる。
未来さんやめいさん、アキオさん指摘のように文学的表現においては優れた作といえる。
 現在の多喜二文学の歩みにおいては「東倶知安行」は、多喜二のプロレタリア作家第二作目、「蟹工船」に先立つ作という位置づけを受けてはいない。
1970年発行の『小林多喜二読本』(啓隆閣)で「東倶知安行」を論じたのは伊豆利彦だった。しかし、この点は意識されていないように思う。
しかし、三一書房版『小林多喜二読本』(1958年)では窪田正文が「東倶知安行」を論じて出色である。

つづく

takahashi
2006年06月12日 23:54
前につづく

久保田は、特定の主人公をもたず時代の一大事件をルポとして描いた「一九二八年三月十五日」と、「蟹工船」の間にある「東倶知安行」が私小説的方法で描かれていることを創作方法としての後退としながらも、<ー「東倶知安行」―「蟹工船」・・・という制作順作品系列をもう一度思いかえすならば、「東倶知安行」は、良心的インテリゲンツィア・小市民の生きかたの問題としては、それを鋭くはしたが窄く限定する方向へ進んだというほかはないと思う。そのせまい鋭さのために、私小説的方法がマッチしたということも結果として言いうると思う>と述べている。
Takahashi
2006年06月12日 23:55
前につづく

また、島村輝は「観察する私・行動する私―「東倶知安行」の語り手」(『臨界の近代日本文学』1999年)で、<総選挙での予想外の敗北、「三・一五」事件を経て、多喜二が年頭の日記に誓ったような決意と確信は揺らぎがちであった。・・・創作の面でも「防雪林」への不満がきざしていた。・・・「一九二八年三月十五日」の創作に打ち込むことによって、この生活上・制作上の危機を乗りこえていくわけであるが、それを書き終わってもまだ発散しきれなかったエネルギーが「東倶知安行」に結晶したといっていいだろう。>と論じているが、このあたりの多喜二の模索は、『創作月刊』という発表メディアの選択がふさわしかったかどうかも含めもっと仔細に論じる必要があるだろうと思う。
めい
2006年06月13日 10:47
とても勉強になりました^^多喜二の主要な作品を結ぶ線がみえて、これからの愛読人生(?)にまた光が!!
当時の、主要雑誌のそれぞれの性格とか、特色とかも、知らなければなあ、と思いました。多喜二も、やっぱり、自分の作品にもっとも合っていると、自分が思う雑誌を選んで、応募していたのですよね???
アキオちゃん
2006年06月14日 20:35
アキオちゃんも勉強になりました。大逆事件(1909~1910『明治43年』??)って幸徳事件。。
石川啄木がブログされたので??古本見つけました。
(1967年加藤悌三著 石川啄木)
啄木は前年の重要事項を日記に認めたそうです。
6月(幸徳秋水の逮捕の月)のところに。。
『幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりポツポツ社会主義に関する書籍雑誌をあつむ』と記しています。
 大逆事件が啄木の思想的転換の重大な契機になったと記述されています。
 なおも啄木は。社会主義は夢だというK氏に
『少なくとも僕の社会主義は僕にとって夢ではない。必然の要求である、K家と僕の一家を比較しただけでも、養老年金制度の必要が明白ではないか!!』スッカーとするね。(アキオちゃん)
最後に私の好きなとても素敵な詩。。
 やわらかに つもれるゆきに ほてるほお
うづもるごとし 恋してみたし  啄木
ロイヤル被害者
2014年01月01日 23:57
ロイヤル倶知安に15万使って一回も当たりこないんだけど。

客ナメてるよ。

ガラガラだし。
終わってるぞ。

この記事へのトラックバック