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zoom RSS 諸原理は、研究の出発点ではなくて、研究の最後の結果である

<<   作成日時 : 2009/05/06 19:39   >>

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 エンゲルスが自然科学に学び、そこから哲学的思考をめぐらした姿勢に私はいつも学びたいと思っています。とっ言っても、理屈では解っていても徹底した唯物論者にはなれそうもありませんが(笑)。

画像 まだ読み始めたばかりなのですが、不破哲三著『古典への招待 下巻』でエンゲルスの『反デューリング論』が詳しく紹介されています。レーニンが『唯物論と経験批判論』を執筆した際にも多くの引用をしたのが、この『反デューリング論』です。この著作の中で、エンゲルスは次のように述べています。

 「諸原理は、研究の出発点ではなくて、研究の最後の結果である。自然と人間との歴史とに適用されるのではなくて、そこから抽象されるのである。自然と人間界とが諸原理を基準にしこれに従うのではなくて、諸原理は、ただ自然と歴史との合致する限りで正しいのである。」

 これこそ、正しい姿勢だと思います。でも、これが難しいのですよね。私もいつも経験的、観念的に考えてしまい、このような姿勢で物事を考えることを怠ってしまいます。でも、近づきたいとは思っているのですが。
 ここでは、「諸原理」は結果だということになります。だからこそ自然や歴史をしっかりと学ぶ必要があるのです。自然や歴史には、人間の社会も含まれることになります。こう考えると、私たちが歴史を学び、そこから何を導き出すかの姿勢が明らかになるだろうと思います。私が多喜二やその他の歴史から学びたい思う姿勢もこうありたいと思っています。

 ここに、現代の哲学的思考の興味深い動向が浮かび上がることさえあります。島村先生のブログに紹介されているUTCPシンポジウム「運動としてのモダニズム」 が研究しようとする姿勢と、「多喜二・百合子研究会」会報第188号は興味深い対比をあらわしているかもしれません。

 今回は「蟹工船」ではないが、もともと「新感覚派」と「プロレタリア文学」は時代を共有している。横光については何本か論文を書いたこともあり、この間、この同じ場で発表される林少陽さん、鈴木将久さんらと「日中新感覚派研究会」続けてきた。「新感覚派」と「プロレタリア文学」との対立という図式や、さらに大衆文化、複合メディア、ジャーナリズムの動向なども含めた広い視野からの、この時代の文化の見直しにつながっていく可能性を持つテーマだと考えている。(島村先生ブログ)

 プロレタリア文学と「新感覚派」との共通点の発展に傾き、運動の視点への目配りのたりないような論も出てきている中で、形式と現実認識とのかかわりを追求していくことは、これからの課題ではないかと思います。(岩淵剛)

 私は、別に「新感覚派」を持ち上げる気はいささかもありませんが、両者がそれぞれ「図式」と「形式」という思考の姿勢が問われる思います。「図式」に問題を提起する姿勢と、「形式」にこだわる姿勢、ここに研究に対する姿勢の違いが現われているのかもしれません。

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 横光利一の盟友・川端康成は旧制茨木中学のOBで、彼の一学年下に大宅壮一が在学していたそうです。(在学中に米騒動支持のアジ演説をして退学)二人が社会人になって、杉並の隣同士の家に住んでいたのも、そういう背景があったのですね。益川氏と並んで、大阪の旧制中学出身者からノーベル賞受賞者が二人出ていることは注目に値しますね。
御影暢雄
2009/05/06 20:41
1931年、壊滅された日本の左翼運動をたてなおす使命を帯びて蔵原惟人がロシアからひそかに日本に帰ってきた際、その身を寄せたのが川端康成だった。また、川端は、多喜二の作品が発表されるたびに、それを文芸時評にとりあげ、多喜二の死にあたっても、江口の言葉を引きながら発言していたことを思い出します。プロレタリア文学派と「新感覚派」とを固定的図式でとらえることは、こうした人的交流の側面をそぎ落とし、”運動”のひろがりを追及する立場と矛盾しやすくなるのではないでしょうか?
また一方で、”運動”の利を第一に考えることは、それぞれの”運動”の理をあいまいにしやすくなるとも思われるが、こうした課題を考察するひとつの材料が小林茂夫 多喜二・百合子研究会代表の多喜二の地下からの指導論文の考察や、『プロレタリアの作家たち』(新日本出版社 1990)ではないかと思っています。
佐藤三郎
2009/05/06 23:12
あまり整理せずに書いたのですが、この間感じている違和感の元が、「図式」や「公式」に対する見方にあのかなと思ったりします。
歴史は一瞬たりとも止まっているわけではなく、一断面だけを取り出すのではなく、全体的にみる必要があると思います。

「プロレタリア文学派と「新感覚派」とを固定的図式でとらえることは、こうした人的交流の側面をそぎ落とし、”運動”のひろがりを追及する立場と矛盾しやすくなるのではないでしょうか?」というところをよく考える必要があると思います。
まだまだ私の中では十分に整理できていないので、問題意識として書きましたが、ご意見ありがとうございます。
未来
2009/05/07 05:24
拙論に目を留めていただいたようですね。1999年4月号の『民主文学』に横光利一論を書いていますので、そちらも見ていただければさいわいです。
岩渕剛
2009/05/13 16:06

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