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akioさんから小林多喜二の恋パート11が書き込まれました。このakioさんの書き込みはけっこう大変なんですよ。私も以前、多喜二から田口瀧子宛書簡すべてを書き込みましたが、かなりのエネルギーがいりました。おかけで「田口タキ」のテーマで調べるとすべての書簡が簡単に見れます。コピーするのも楽です。akioさんの書き込みも「中津川俊六」のテーマで調べれば簡単に見れるようになっていますよ。以下にakioさんの小林多喜二の恋Jを転載します。 小林多喜二の恋J中津川俊六(1949・2婦人公論) 〔瀧子の自活〕 瀧子が家出してから、約10日間はいつかすぎってしまった。小林は彼女の居所を探すために、毎日のように彼女の母親を訪ねては消息を探ったり、父が亡くなってからは、小林一家の面倒をみている義兄を相談相手にして、心当たりを歩き回ったりして、精も根も枯れ尽くした。 だから、瀧子が花園町の小野病院で働いているのを付きとめる事ができ、18日の夜には、やっとのことで彼女と会い、2人で町を散歩しながら話し合ったのだけれど、直ぐにも彼女を自分の家に連れ戻そうと、今の今迄の張詰めた気力も足元から崩れて、それを言い出す術を知らなかった。 しかし、それは彼女を探すための毎日の心労のせいばかりではない。この10日間は、たしかに彼に反省の時間を与えずには於かなかった。彼女の立場というものを、いやでも考えずにはいられなかった。 二人の間に愛情さえあれば、何時までも一つ屋根の下で一緒に居られるものだ、という単純な愛の公式に囚われていた、自分が、今更の様に恥かしく思われてならなかったのだ。♪ ありていに言えば、小林は瀧子に対して暴君で在ったと言える。世間に有り触れたような暴君の振る舞いは一度もしなかったが、無意識にしろ彼女の立場を無視して、一方的に自分の我を通そうとする態度が、彼女に強く反射し、それが今度の家出となったのであった。 それでは、小林の我とは、一体なんであったろう。一口に云うと、文学への情熱と云うより他ない。文学のためには、他を顧みず、如何なるものをも犠牲にしてやまぬ気力、それが小林の我であった。 小林は同人雑誌「クラルテ」をはじめ、他の雑誌にも、この三、四年の間に20篇に近い小説を書いていたが、のれんに腕押しのような、虚空を掴む様な、はかなさ、頼りなさが、己の文学に自信を失ったのではない。自信のある作品が世間に認められないもどかしさが、作品を書く度に強まっていくのであった。♪ ♪もっともこの地方の文学仲間からは、彼の文学的力量は十分に認められていたし、やや常識的で、自然主義的で、大正末期の文壇的文学からみれば、古めかしい衣を脱げ切れずにはいたけれども、的確なテーマの把握とそれにふさわしい強靭な手法とは、一部の人々から彼の文学的な将来を約束させられていた。 しかし、それくらいの反応で、彼の文学的情熱が満足される筈がなかったのは云うまでもない。 世の常の文学青年の様に、彼もまた作家志望を捨てる事が出来なかった。 そのころ、彼は作家の新井紀一へ、東京の就職口を頼んでいた。(札幌拓銀本店の課長にも。) 東京へ出て、みっちり文学勉強をやるためというよりも、作家を志して地方に踏み止まっている愚かさから、一時も早く身をかわして脱けようとしたからであった。(次回:瀧子に求愛出来ない多喜二) 注:瀧子の家出=1926・11・11 注:「評論『シエクスピアよりも先ずマルクスを』を発表し(浅野十二氏)と小樽新聞紙上で論争をしている時期です」 ※多喜二が瀧子に贈った「石川啄木」詩64首。 (1926・2・15:田口瀧子あてラブレーター) ○『啄木研究』=甲東牧人著=1938年1月号から引用 4:何処やらに沢山の人が争いて 国引くごとし われも引きたし 5:とある日に 酒をのみたくてならぬごとく 今日われ切に金を欲りせり 6: 目の前の菓子皿などを かりかりと噛みてみたくなりぬ もどかしきかな 7:こころよく 我にはたらく仕事あれ それをし仕遂げて死なむと思ふ 8:よごれたる足袋穿く時の 気味わるき思ひに似たる 思出もあり 9:東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 10:頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず |
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未来さん。コメントありがとう(^.^) |
akio 2008/05/14 20:26 |
みなさん、お気付きですか? |
未来 2008/05/14 20:41 |
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