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zoom RSS 人間らしく生きるとは  プラムディヤ『すべての民族の子』(上)

<<   作成日時 : 2008/04/12 08:24   >>

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 プラムディヤ選集を読み進めています。現在第4巻の『すべての民族の子』(上)を読み終わったところです。『大地の子』上下、『すべての民族の子』上下、『足跡』、『ガラスの家』がいわゆる4部作です。読み進めるうちにグイグイと引き込まれていきます。人間の尊厳がどのようにして踏みにじられ、いかに騙されたイデオロギーが形作られていくのか、そんな中で生きるとはどういうことか、人間の尊厳をかけた生き様が徐々に描かれようとしています。
 まだ3冊読み終わったばかりですが、これからミンケがどのようにして目覚め、すべての人間が平等で、それぞれの人間が同一の尊厳をもっていること、その人間の尊厳をかけた闘いに立ち上がるのか、今後の展開に眼が離せなくなりました。久々に読み応えのある長編に巡り合いました。

 苦しむことには限度があります。しかし苦しみにうちかつ方法はそれこそ無限にある。喜びもなく、光明もなしに苦しみにうちかとうとするばかりでは、人はその苦しみのなかで堂々巡りするだけです。

 成長の種は、彼の誠実な友人たちから得る

 すぐれた作家は、読者に歓びを与えられるものでなくてはいけない。偽りの歓びではなく、この人生は美しいものであるという確信を与えられなくては。

 闇があるから光がある、とタキに書き送った多喜二。循環小数だと苦悩し、そこから必ず脱しようと葛藤した多喜二。「救い」を出そうとすればウソになる、と気づいた多喜二。誠実な友と成長し続けた多喜二。そんなことを考えながら読みました。

 この作品には、人間らしく生きることとは何か、そんな大きなテーマが描かれようとしています。

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鶴彬と多喜二そして「函館川柳社と我が妻」♪

 函館川柳社は、1977年の『鶴彬全集・一叩人編』の刊行に係りを持ったことが分りました。
 『鶴彬全集・一叩人編』の中で、「小林多喜二」の記述が2回ほど出てきます。
 @ 鶴彬「田中五呂八と僕」A 「思い出の鶴彬=井上麟ニ」です。(このことは後に機会があったら書き込みします。)
 「函館川柳社創刊号=1931年5月10日刊行」『可無為(かむゐ)』でした。(1916年川柳会から分裂等も)
創刊の辞:・・川柳を味わうと言う事は、我々の生活要素の一たる美を目的とし、美を追求して、人格の本質内容を送り出そうとする態度であり、その態度は純真そのもので、全く他の態度を交えることを許されぬからである。♪
 
akio
2008/04/12 22:13
♪その創刊号から「3句」
 席題「呑気」
○ 父の臍(ヘソ) 子の臍 朝湯澄んでいる。白眼子
 席題「金」
○ 包まれた 金へ心が 突当り  白眼子
 席題「風」
○ スカートを気にせず向い風来る 白眼子

 この「白眼子」は、戦後『北村歯科医院=函館市東雲町』の歯科医師で我が妻の担当医でした。
(函館手川柳社の創刊号を読んで、「函館市史」で確認しました。)70過ぎても歯科医でした。
 
 この時期「鶴彬」さんの「函館川柳社」あて投稿文ないか(と、言うより。)この時期は「ずーっと刑務所」に収監されていました。    
akio
2008/04/12 22:33
「山本宣治と小林多喜二」

二人が会う事が出来たのは「1928年12月2日か3日」しかないと思います。(山本宣治は。)
@ 12月2日:12時半の連絡船で函館着、すぐ函館本線で小樽に向う。(この日??何処に宿泊したかは・分らない)
× 今までは「函館で演説会」となって居る為。
A 12月3日:小樽駅前「つるや旅館」に宿泊、そして小樽での演説会。
B 12月6日:山本宣治は前日、旭川での演説会を終え6日早朝、函館本線で函館に向い。夕方6時過ぎ、「函館劇場」で「演説会を開催する。」
12月3日:小樽で「山本宣治」に会っては居ない。 (出来事を書いた多喜二が、日記にも書簡にも無い)
○ 多喜二は、山本宣治には一度も面識を持たず、「小樽演説会」にも、行かなかった。と思います。 こんな、akioの詮索の結果を。自己満足しています。
 でも、山本宣治は『1928・3・15=戦旗社(1928・11・12月号)』を汽車の中で読破していたかも知れませんね。
akio
2008/04/12 23:38
「治安維持法と現代」(NO.13 2007春季号)に、藤田廣登が多喜二に関する未解明のテーマを挙げて、コメントされています。B多喜二と山宣の遭遇については、1928年12月3日小樽にて山本は政談演説会にのぞんでいるが、多喜二と会ったという確証は存在していないとされています。(AKIO氏の言われるように、小樽に山本が来る前に「1928.3.15」が戦旗に掲載され、センセーションを巻き起こしていたので、彼は多喜二の名を当然強く意識していたのではと、藤田氏は指摘しています。)
風間六三は当日、演説会の受付をしていましたが、多喜二が参加したような覚えがあるが、はっきりしないとのことですね。(倉田稔「小林多喜二伝」)
御影暢雄
2008/04/13 09:11

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