未来 ― 私達の力で歴史を動かそう!

アクセスカウンタ

zoom RSS 多喜二 1928年1月1日日記

<<   作成日時 : 2008/03/19 20:33   >>

トラックバック 0 / コメント 2

 多喜二の1928年1月1日の日記は有名です。度々引用されるのが、「さて、新らしい年が来た。俺達の時代が来た我等何をな為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ」です。この一文は日記の一部です。私もここだけを取り出して論じることもありますが、ずっと気になっていることがありました。
 「Tが、『復活』のカチューシャと同じように、自分から去って行った。思想的に断然、マルキシズムに進展して行った」という前段があるのですが、この文が改行なしに書かれているのはなぜか、後段に「『復活』読了。感激を受けた。自分の考えを小樽新聞に発表する積もりだ」とありますが、そのことと多喜二の心境はどうだったのか、そんなことをずっと考えていました。

 この日記の全文を論じたものを読んだ記憶がないのですが、この日記の前段の部分は切り取って論じると多喜二の本意は読み取れないとずっと思っているのです。そう言いながら私もつい便宜上切り取って、新聞に投稿したりしたこともあります。
 もう一度考えみたいとずっと考えています。参考に前段全文は次のとおりです。

 さて新しい年が来た。昨年は何をやった。
 Tが、「復活」のカチューシャと同じように、自分から去って行った。思想的に断然、マルキシズムに進展して行った。古川、寺田、労農党の連中を得たことは、劃期的なことである。
 「文芸戦線」十月号に、戯曲「女囚徒」が載ったこと。
 そして、その間に東京へ出ようとあせった。
 そして、新らしい年が来た。俺達の時代が来た。
 我等何をな為すべきかではなしに、如何になすべきかの時代だ


 最初は、田口タキとのことを、「復活」のカチューシャとネフリュードフの最後のように、わかりあいながらも別れていく心情を例え、なおかつ、ネフリュードフの決意を例えたようにも思っていました。「復活」の最後は次のようになっています。

 この晩からネフリュードフにとってまったく新しい生活がはじまった。それは彼が新しい生活環境のなかへ入ったというよりも、むしろそのときから彼の身に生まれたいっさいのことが、これまでとはまったく別な意義を帯びてきたからであった。彼の生活におけるこの新しい時期がどのような結末を告げるのかは、未来が示してくれるであろう。(木村浩訳・新潮文庫)

 どうです?どことなく似通っているでしょう。でも、しっくりこないのです。多喜二は未来を俺達の力で切り開く決意を述べていますが、「復活」のネフリュードフを書いたトルストイは「未来が示してくれるであろう」としか示していないのです。
 ところが、二日後の1月3日付けの「吹雪いた雪の夜の感想」には、少し違う観点から書かれているように感じてしかたがないのです。

 トルストイにとってはカチュウシャとネフリュウドフは彼の辛辣な社会批判を発展さすに役立たせた「契機」であるに過ぎないのである。
 「復活」の中からカチュウシャとネフリュウドフをのけてしまっても、全然差し支えないといえても(いえる!)
 略

 う〜ん、ここあたりにずっとこだわっていたのです。Tと「復活」。多喜二にとっては、切っても切れないものがありながら・・・。多喜二がこのような書き方をするってどうなのでしょう。多喜二の生き様を語るうえで田口タキをのけてしまってはダメですよね。

 今年になって多喜二の評論や日記を繰り返し読んでいるのですが、書簡を読み直して、はっ、と思いました。獄中の書簡に「復活」のことが書かれていました。やっぱり多喜二にとって「復活」のカチュウシャとネフリュウドフは意味深いのだと思いました。ひとり納得です。

 「静かなるドン」の教訓、に何年もこだわったり、「復活」にずっとこだわったり、これも私の多喜二を読む楽しみかも知れません。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
小林多喜二の戀 D
 小林は1903年に、秋田の田舎、北秋田郡下川沿村の自作兼小作農を父として生れた。母はイロハも習えないような日雇土方の娘であった。百姓だけでは食えないので、両親は農閑期になると、近所に建っている土工のトロッコ押しに出かけた。 
 彼が4歳の時、土地も奪われ、とうとう食えなくなった小林一家は、津軽海峡を渡って北海道へ移住した。そして小樽のいまの築港駅近くに、土工や百姓や農夫の家にとり巻かれながら、5厘パン(1円の200分の1)・パッチ(紙札?)・ニッキ(香辛料?)・ゴムせんべい(?)を売るような駄菓子屋を開いた。
 火山灰会社に働きに行っている姉(チマ:1900年生)は、真白になって帰って来ると、長いことかかって髪を洗った。(注:多喜二が1919年3月『尊商』に「呪われた人」を発表しています。「火山灰会社で働く=彼」となっていますが、「姉」がモデルと想います。)
 妹(ツギ1907年生)たちは(弟三吾も?)石炭カスの捨場へコークスを拾いに行った。♪
 
akio
2008/03/19 22:09
♪ 小林が17、8歳ころに書いたものに「駄菓子屋」小説がある(注:1924年7月3日《クラルテ》に掲載)が、当時の喰うや食わずの一家の貧乏生活を描いたもので、おそらく、単に処女作であったというばかりでなく、自然主義的な作風でありながらも、後年の小林文学への発足として記念碑的な役割をもつ作品であった。(注:まだ多喜二作品が時系列に整理されていなかった時「1949年」の記述からと思います。)
 ところで、そういう貧乏暮らしのうちに小学校を終えた小林は、頭がずば抜けて良かったので、小樽中学の下でパン工場を経営している伯父から学費を出して貰い、小樽商業から小樽高商へと進む事が出来た。
 といっても、自分の家から学校へ通うような楽な身分にはなれず、そのパン工場に住込んで、伯父からは恩に着せられながら働かなければならなかったし、また、工場の使用人達からは、親類の者だ、学生だというので、別扱いにされ、変な敵視を受けなければならなかった。(注:このことは、1932年1月新潮社発行「コースの変遷」に掲載されています。)♪(続く)
追伸:「角膜剥離」も治りました。

akio
2008/03/19 22:49

コメントする help

ニックネーム
本 文
多喜二 1928年1月1日日記 未来 ― 私達の力で歴史を動かそう!/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる