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御影さんから「里見が志賀に伝えた多喜二像」を想像したコメントが寄せられました。以下に紹介します。 川内まごころ文学館には有島兄弟の資料が多数所蔵されていますが、とりわけ里見とん直筆の書が多いです。 1927年5月、芥川龍之介と里見は改造社の文学全集の宣伝のため、小樽で文芸公演をしています。講演後、多喜二らクラルテ同人が中心になって二人を料亭に招き、歓迎会を行いました。この時、多喜二が里見を一人占めして志賀直哉のことを一生懸命聞き出そうとしたそうです。 里見と志賀はこの頃、付き合いが途絶えていたのですが、その後交友を復活し、一緒に旅行へ行くこともありました。私の前からの想像ですが、旅行の中で里見は志賀に、多喜二の印象を伝えていたと思います。志賀の多喜二に対する思い入れの背景に、里見が語った「多喜二像」が深く刻まれていたのではないでしょうか。 里見が志賀に伝えた多喜二像・・・「小樽へいった時、小林という君の大ファンがいたね。なんとその彼が今をときめく小林多喜二だっだんだよ。今から振り返ると、あいつの眼は優しいが光っていたな。やはり素質のある奴はどこか非凡さを秘めているんだな。ワシの頭の中では芥川が逝った後、小林が彗星のように輝き始めたように思えるんだよ。」 |
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蛇足になりますが、里見・芥川がやって来たのは5月20日。芥川はこの時、気分が落ち込み気味で体調が思わしくなく料亭でも「一人悄然としていた。」(倉田稔「小林多喜二伝」)そうです。二人は宴会後、小樽駅で多喜二らの見送りを受けて、夜行寝台車(青函連絡船経由)で東京に帰りました。芥川が自殺したのは2ケ月後の7月24日のことです。翌年多喜二は「1928年3月15日」を発表してプロレタリア文学の新星として注目され、翌翌年「蟹工船」によって文壇での華々しい地位を獲得します。里見が上記の如きイメージをもって、龍之介・多喜二への思いを抱いていたのは十分考えられると思うのですが。松本清張も「小林多喜二の死」の中で、芥川龍之介・小林多喜二が相似性を持って、脳裏に深く刻み込まれていると語っています。 |
御影暢雄 2007/03/02 22:39 |
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