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zoom RSS 多喜二にとっての1927年

<<   作成日時 : 2006/07/03 20:59   >>

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 昨日、このブログを整理していて気づいたことがあります。小林多喜二を語るブログなのに、主催者である私の記事が一番多喜二のことに触れていない、ということです。う〜ん、これは少し変かなと思ってしまいました。どうも私の関心は現代にありすぎるため、政治的な問題に偏っているのかもしれません。と言いながら改める気持ちはないのですが・・・。いいですよね?
 といいつつ、多喜二のことに今日は触れます。実は、1931年という時期を志賀直哉訪問という問題から考えさせられていたのですが(これはこれで研究する価値ある時期ですが)、昨日「その出発を出発した女」を読んでいて、多喜二にとっての1927年は最も重要な時期ではなかったのかと考えるようになりました。

 マルクス主義に疑問を感じながらも、どんどんマルクス主義を吸収していく日々が1927年です。フォイエルバッハ論や唯物史観などを勉強したのも1927年です。現実をありのままに見ることの重要性と、それだけではいけないという思想が多喜二の中で確実に成長しています。「だけ」というのが重要だと思います。フォイエルバッハの限界は、「現実をそのままにみる」だけで(これはこれで重要なのはいうまでもありません)、理論の面だけから人間を考えるという限界を持っていました。
 その限界を多喜二が感じ始めたのが、1927年だと考えます。社会が人間の活動による歴史的産物の時代的反映であり、それゆえに社会は不変ではなく、どうやって変革するのか、その条件はあるのか、そのことを考えたのが1927年ではないでしょうか。
 ここには、多喜二が実践活動に少しづつ踏み出した経緯とともに考えれば興味深いものが見えてきます。

 そうした観点から「その出発を出発した女」を読むと、「上編」「中篇」の断続と継続の関連性に気がつきます。多喜二独特の「ノート稿」という位置づけを考えた時、ここには思いつきでない多喜二の意識が表現されていると思うのです。
 多喜二はあきらかにひとつの模索をし続けていたと思います。@「現実をありのままに描く」、A「その現実は固定したものではなく歴史的産物であることとして描く」、B「そこには矛盾があり、人間の活動によって変ええるという問題を描く」。多喜二は、この三番目のテーマを「下編」に描こうとして、壁にぶつかったのだと思います。
 それは、多喜二自身がまだ踏み出すことができず、体験していない課題だったのだと思います。そこからの多喜二の「冒険」(多喜二が他で使った言葉を便宜的に使いました。「挑戦」の方が現代的にはいいと思いますが)が、小説としてだけではなく実践としても始まったのだと思います。
 この頃書き始めた「防雪林」との関係を考察することは、とても重要な問題だと思います。まだ問題意識の段階ですが、多喜二の1927年を今一度考えてみたいと思っています。

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内 容 ニックネーム/日時
1927年は昭和恐慌の年で、関東大震災後に発行した震災手形の償還を巡っても、国の財政が危機に瀕した年ですね。経済危機を背景に、労働運動の先鋭化も多喜二に大きな影響を与えたのは当然の成り行きだったと思われます。5月に里見と小樽に来た芥川龍之介が7月に自殺しており、確かに節目の年だったと考えられます。小学館の文庫本「昭和の歴史NO2・昭和の恐慌」(中村正則)にはこの時代のことが詳しく書かれています。「1928年3月15日」の戦旗社版の写真や、山本宣治のことも詳しく記述されています。1927−1931の時代の背景を理解するのに役立つ本だと思います。
御影暢雄
2006/07/03 21:55
小林多喜二自身は、1931年に書いた自分の「年譜」のなかで、
「ぼくは小樽高商の所謂「軍教反対問題」に関係した友人からマルクスやレーニンの著作、当時評判だった福本和夫の著作を読むことをすすめられた。なおその上に、山本懸蔵の立候補、諸種の研究会、あの「三・一五」事件等々が、そのぼくの傾向を決定的なものにした。ぼくは又プロレタリア芸術理論や葉山嘉樹などを貪り読んだ」とその時代を振り返っています。
そのことは、生誕100年記念の東京・九段会館での新船海三郎記念講演(加筆訂正して『作家への飛躍』に収録)でも、「防雪林」から「不在地主」へという過程を紹介しています。
多喜二には幾度かの「飛躍」の時期があったと思います。それは多喜二自身への厳しい自己批評の賜物だと思います。

takahashi
2006/07/03 22:09
 決定的飛躍と準備段階、その地点としての1927年に注目してみました。
 私にも決定的時期はありましたが、そこにひとつの跳躍台ともいうべき地点がありました。そこから「量から質への転換」の時期を考える「点」としての地点に、私自身の体験から思いついたことです。
 これは、私の問題ともかかわりますので、私なりの考察をしてみたいと思います。
未来
2006/07/03 22:52
たしかにこのブログ、過去の情報が整理されていますね。お疲れ様です。

7/3東京・目黒の「時代を撃て・多喜二」上映会に参加してきました。
でも、今日は疲れたので、詳細はまた後で。
takahashi
2006/07/04 01:40
佐藤三郎氏のBLOGでも一度、コメントしたことが有りますが、新しい「小林多喜二伝」が求められているように思います。神様でも孤独な殉教者でもなかった等身大の多喜二を、次代をになう若い人たちに伝えられる「多喜二伝」を仕上げるーこれは当BLOGに集う皆さんの共通の課題といってよいのではないでしょうか。未来さん、このBLOGがやがて「新多喜二伝」作成の実行委員会として機能することを願ってやみません。
御影暢雄
2006/07/04 04:02
 新しい「小林多喜二伝」がたしかに求められていますよね。等身大の多喜二、青春を、人生を真剣に考え、生きた多喜二の姿は、いまの青年にも共感されるものがありますね。闘士としての多喜二像ではなく、恋し、悩み、だからこそ一生懸命だった多喜二。
「新多喜二伝」作成の実行委員会は無理かもしれませんが、等身大の多喜二を語りたいですね。
未来
2006/07/04 05:49
未来さん、私もそれを心から感じる。
小林多喜二は青春を真剣に考え、あらゆる勉強をして壮大な物を描き書きたいと思ったにちがいありません。
そのために社会の事実(真実)を知ろうとした。そして当時の弾圧や小作争議を知って小説をリアルに書き続けたと思います。
アキオちゃん
2006/07/04 20:46
そうですね。悩み、恋した多喜二だから、私は身近に感じるのだと思います。
未来
2006/07/04 20:53
そうですよね〜!そうそう!わたしたちは生身の多喜二をもっと知りたいんですよね^^
めい
2006/07/05 12:25

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