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zoom RSS 川端康成の『地区の人々』の読後感

<<   作成日時 : 2006/05/22 21:05   >>

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 佐藤静夫「多喜二の死と同時代作家」の川端康成の引用に省略があったため、誤解をまねいたようです。川端康成の文を追加で紹介します。小林多喜二の『地区の人々』への読後感です。

 「とにかくこの作品は、私を明るくしてくれた唯一のものであった。生活の指標も希望もない、諸家の作品に読み疲れた私を救い出してくれたのは、やはりこの作品であった」

 川端康成は、当時の時代の中で多喜二の作品をこのように読んでいたのです。思想の上では違った川端康成の『地区の人々』への読後感は、当時の暗黒の時代を川端康成がどう考えていたかを考えるうえで貴重な証言と考えられます。

 小林多喜二の『不在地主』に共感していたハンセン病作家北条民雄を、世に紹介した川端康成の業績を併せて考えれば、興味深い川端康成像が浮かんできます。
 私自身は、川端康成はそんなに好きな作家ではないのですが、文庫化された作品を10代から20代にほとんど読んだのはなぜかと今更ながら考えてしまいます。

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コメント(21件)

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川端の「地区の人々」への批評は、中国でのシンポジウムの基調報告の中で少しだけ触れましたが、川端は多喜二の虐殺(と、ほとんどはっきりそういっている)に関連して、当時の『改造』の巻頭言や『中央公論』の編集後記に言及しながら、「文化圧迫」の状況を憂いています。事態がはっきり目の前にさらされたときにはもう手のうちようがなくなっている、というのが歴史の教えるところではないでしょうか。あとになって「あの時なぜ手をこまねいて見ていたのか」と悔やまないように、今言えることはすべて言い、できることはすべてやるべきだと思います。
Prof. Shima
2006/05/22 22:09
非合法活動をしていた小林多喜二の依頼を受け、川端康成が自宅を党会議の場として提供した――というようなことを読んだのは何の本だっただろうか? それとも妄想だったろうか? いまは思い出せないなぁ。
takahashi
2006/05/23 02:43
 「今言えることはすべて言い、できることはすべてやる」。そのとおりだと思います。
 歴史を学ぶのも、未来をつくるのも私たち一人一人の人間です。
未来
2006/05/23 05:27
「ぶらっと杉並文学散歩」というHPを見ましたら、多喜二の住んだ馬橋界隈(現在の阿佐ヶ谷南‐高円寺南)で青春を過ごした作家達のことが書かれていました。多喜二・川端康成・井伏鱒二・横光利一・太宰治・亀井勝一郎。多喜二と作家同盟の同志だった大宅壮一は川端と偶然隣同士に住み、日常的な付き合いがあったと記されています。川端と多喜二に一時的な付き合いがあったとすれば、大宅を介していたと想像します。伊豆利彦先生によれば1933年8月(多喜二の死後半年)、川端は「末期の眼」を書いており、当時の作家達の閉塞的状況の中での苦悩が読み取れると指摘されています。川端は多喜二の死を彼なりに重く受け止めていたことは間違いないと、私は思います。
 参考図書  村上譲 「阿佐ヶ谷文士村」春陽堂書店
御影暢雄
2006/05/23 10:15
そうだったのですか!!いろいろ教えてくださった先生方ありがとうございました!そしてゴメンね、川端。
それと、「馬橋」ってどこなんだろう???とずっと思っていたのですが、阿佐ヶ谷南〜高円寺南の辺だったのですね^^この天気が落ち着いたら、街あるきしてみたいです♪♪
めい
2006/05/23 10:36
皆さん、ありがとうございます。このように多喜二の話をできるといいですね。すごく勉強になるし、楽しいです。
 私がもっと提起できればいいのですが・・・。皆さんに頼りきっていますので、よろしくお願いしま〜す。
未来
2006/05/23 20:27
倉田稔「小林多喜二伝」によれば、多喜二は馬橋に住んでいた頃、井伏鱒二とも食事をともにする付き合いがあったそうです。食事の場所は多喜二の家にも近い、阿佐ヶ谷弁天池近くの「ピノチオ」という小さな中華風レストランで、多喜二は立野信之とよく来ていたとあります。井伏の多喜二に対する印象は、「よく気が付く人で、酒は自分は呑まないで人にお酌ばかりしていた。」と述べており、多喜二に好感を抱いていたことが窺えます。ピノチオは阿佐ヶ谷文士の溜まり場となっていったことが知られています。太宰治は井伏に私淑していましたが、多喜二と会ったという記録はないようです。二人が言葉を交わしたかどうかは不明でも、何かの会合で同席した可能性はあったようです。倉田稔氏によれば、太宰は「不在地主」を学んで、「地主一代」を書いたそうです。多喜二が当時の青年・学生にカリスマ的人気を得ていたことを示すEPISODEと、私は理解します。
御影暢雄
2006/05/23 22:01
多喜二くん「不在地主」は、1929年7月に書き始められています。
6歳年下の治くんが 大熊「地主一代」を書いたのは、同じ年の11月。
偶然でしょうか?

ちなみに多喜二くんは9月に脱稿、『中央公論』10月号に発表しています。
治くんは、「大藤熊太」という強そうな名前で、青森の同人雑誌『座標』7月号から連載をはじめ、11月号で中断しました。
その間の、1929年12月にカルモチン自殺を図ったとされています。
このへんのことに現在NHKラジオで『太宰治』を講義している渡辺芳紀氏は、一言もテキストでは触れていません。あたかも、「地主一代」という作がなかったかのようです(笑)
Takahashi
2006/05/24 00:04
 手塚英孝、倉田稔の小林多喜二伝にあるといわれる誤りと限界、新資料の発見による検証と訂正は、いつまとめられるのだろうか。新しい年譜は今秋に発表される予定だが、新「小林多喜二伝」はいつできるのだろうか。
未来
2006/05/24 08:28
学生時代に、川崎和啓さんの「太宰治におけるコミュニズムと転向」という論文をたたき台にして発表したのを思い出しました^^その発表のなかで「地主一代」と「不在地主」の比較もやったのですが、先生には「不毛なことするな」としかられちゃいました。グスン。先生は、太宰はプロ文をシニカルにみていた、と思ってらっしゃるようで、あんなの真面目に書いてるわけないだろ、って。確かに、土佐犬連れて歩き回ったり、小作人たちが飼っている鯉の池にクレゾールまいたり、その語り方も苦笑を誘うオバカな感じですよね^^。でも、実際どうなんでしょう???やっぱり突き放した感じでプロ文をみていたのでしょうか???ええと、井伏鱒二に多喜二が会ってた、ってすごく意外で、ええーって感じでした。自分は飲まないで、酌ばかり、とはほんと多喜二っぽい!!礼儀正しくて気のつく、敏感に空気の読めるひとって感じで。見習いたいものです。
めい
2006/05/25 17:35
 多喜二は井伏鱒二に酌ばかりして飲まなかったの?

 それに「多喜二っぽい!!礼儀正しくて気のつく、敏感に空気の読めるひとって感じで。見習いたいものです」には参ってしまいました。

 困った!私はきっと飲んでしまいます。そんな時に飲む酒って美味しんだけどなぁ。礼儀もなく、空気も読めない私は、とほほ・・・。
 でも、やっぱり楽しく飲みたいけどなぁ。

 ・・・。

 駄目かなぁ?
未来
2006/05/25 20:19
「井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷文士」というHPを見つけましたが、井伏を中心に太宰治や当時の若い作家のことが書かれています。多喜二の殺された晩、文士の溜まり場だった食堂「ピノチオ」に、井伏が外村繁と青柳瑞穂が入ると、刑事がいるのに気づき、すぐに表へ出て帰宅したと同HPの年表に記されていました。これは初めて知りました。ピノチオには多喜二や立野信之も来ることを、特高は知っていたのです。井伏の「山椒魚」「屋根の上のサワン」が、多喜二の「蟹工船」と々年に発表されたことも同HPで教えて頂き、興味深く思いました。特に「サワン」は井伏の後年の名作「黒い雨」に通ずるヒューマニズムを感じます。
御影暢雄
2006/05/26 15:42
『戦旗』一日100冊、『文芸戦線』一週間で80冊、『文芸首都』一ヶ月で70冊・・・というのが当時の新宿紀伊国屋での販売状況だったそうです。
驚きですよね。『戦旗』は共産党派、『文芸戦線』は社会民主主義派、『文芸首都』は新感覚派だった。

ところが、彼等の多くが阿佐ヶ谷周辺に住んでいた。
だから「ピノチオ」がその溜まり場ともなったのです。

メディァでの自分達の立場は立場として主張しながらも、そのことが必ずしもセクト的垣根として隔てたわけでもなかったようです。
そのなかには青柳瑞穂もいた。
娘、青柳いづみこは『青柳瑞穂―真贋のあわいに』(新潮社 2000年)で、5章「文学青春群像」、6章「阿佐ヶ谷会」にそのエピソードが描かれています。
takahashi
2006/05/26 21:34
光陽出版社の『杉並の戦争と文学』にそのへんのところの地理情報がありますね。
naito
2006/05/26 21:55
そのあたりに住んだ人々に以下の人たちがいる。

井伏鱒二(s2,清水町)、太宰治(s8,天沼3丁目)、青柳瑞穂(s2,阿佐ヶ谷南)、三好達治(s4,和田堀)、小林多喜二(s6,馬橋3丁目)、石川達三(s12,馬橋)、木山捷平(s7,阿佐ヶ谷)、火野葦平(s28,阿佐ヶ谷)、藤原審爾(s23,阿佐ヶ谷)、伊藤整(s3,和田堀)、谷川徹三(s3,阿佐ヶ谷)、林房雄(s4,高円寺)、亀井勝一郎(s7,阿佐ヶ谷)、伊馬春部(s7,阿佐ヶ谷)、外村繁(s8,阿佐ヶ谷)、河盛好蔵・中野好夫(s9,井荻)、上林暁(s11,天沼)、北原白秋(s16,阿佐ヶ谷)、その他横光利一、川端康成、大宅壮一。
takahashi
2006/05/26 22:19
太宰治の本名が津島修司だということはよく知られていると思いますが、津島右衛門・元貴族院議員、津島雄二衆議院議員、津島文治 元衆参議員、津島恭一元衆議院議員など、いまでも津島家は青森を地場に政治力を持っていることはあまり知られていないのではないでしょうか?
takahashi
2006/05/26 23:23
「津島右衛門」を「津島源右衛門」に訂正。
太宰の父です。
例の地主一代のモデル?
takahashi
2006/05/26 23:25
中央線沿いはすごいですね〜!!文士村、すてきですね^^ピノチオはやっぱりもう無いんですよね・・・。
未来さん。やはり酒の席では、美味しく飲む人がいないと、興ざめでつまんないので、未来さんは多喜二とは違うタイプの必要不可欠なムードメーカーになっているのではないでしょうか^^それにしても酌ばかりしていて多喜二は楽しかったのかなあ??帰ってから、「あー疲れちゃった〜」とか思ってたりして(笑)
めい
2006/05/27 10:45
生涯の友人で、地下活動の多喜二にアジトを提供していた蒔田栄一さんの思い出のひとつに、32年のクリスマスイブに舶来のシャンパンを、銀座の「サロン春」で飲もうと誘った話があります。銀座に向かうタクシーのなかで多喜二は「シャンペンを飲むというのは今夜がはじめてなんだが、一本いくらぐらいするんだ」と聞いた。3本で40円と蒔田がいうと、多喜二は「」せっかくだけどよすよ」と応えた。蒔田は「なぜ」ときいた。「飲まず、食わずにたたかっている同志にわるい」といってタクシーを降りたということです。

カタブツですよね。
多喜二は・・・。
でもカッコいい!!
takahashi
2006/05/27 11:35
研究家の皆さんはよくご存知ですが、多喜二が志賀直哉を訪問した時、志賀は麻雀か将棋でもてなしたいと誘ったところ、多喜二は両方とも趣味が無いと言いました。志賀は当時の文士なら必須の趣味を、多喜二が知らないことに驚いたそうです。(阿川弘之「志賀直哉・上」)多喜二は小樽の銀行員時代、仕事が終わった後も友人との勉強会や、ある時は労農党事務所の手伝い等で、毎日家に帰るのは12時を回っていたそうです。帰宅後も、創作や読書を欠かさず、一日の平均睡眠時間は3−4時間だったと推定されています。(倉田稔「小林多喜二伝」)
多喜二の超人的な努力家ぶりが窺えます。同時に、将棋・麻雀に見向きをしなかった合理主義も、多喜二の一つの資質だったと私は理解します。TAKAHASIさんは、シャンペンの逸話を述べられましたが、当時流行のカフェー(今のキャバレーに近い)にも多喜二は行かなかったそうですね。
御影暢雄
2006/05/28 20:57
研究家の皆さんはよくご存知ですが、多喜二が志賀直哉を訪問した時、志賀は麻雀か将棋でもてなしたいと誘ったところ、多喜二は両方とも趣味が無いと言いました。志賀は当時の文士なら必須の趣味を、多喜二が知らないことに驚いたそうです。(阿川弘之「志賀直哉・上」)多喜二は小樽の銀行員時代、仕事が終わった後も友人との勉強会や、ある時は労農党事務所の手伝い等で、毎日家に帰るのは12時を回っていたそうです。帰宅後も、創作や読書を欠かさず、一日の平均睡眠時間は3−4時間だったと推定されています。(倉田稔「小林多喜二伝」)
多喜二の超人的な努力家ぶりが窺えます。同時に、将棋・麻雀に見向きをしなかった合理主義も、多喜二の一つの資質だったと私は理解します。TAKAHASIさんは、シャンペンの逸話を述べられましたが、当時流行のカフェー(今のキャバレーに近い)にも多喜二は行かなかったそうですね。
御影暢雄
2006/05/28 20:57

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